出遇(あ)いの道 みんなの法話
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出遇(あ)いの道
本願寺新報2002(平成14)年11月1日号掲載
兵庫・西蓮坊明石支坊 西 勝海(にし しょうかい)
日常を見渡せば
見渡せば往きかう車の数知らず
いづちへ人は行かんとすらん
これはノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士の詠まれた歌だそうです。
普段、何気なく通り過ぎてしまう町の風景は、驚きの感情を包み込んでしまい、しばしばわれわれに錯覚をおこさせているような気がします。
あらためて考えてみると、近代文明は私たちの生活に実に多くの恩恵をもたらしてくれています。
それらは町から町へ、都市から都市への移動時間一つ取り上げても、縦横無尽に走る車や列車により、何より、世界中を飛び回る飛行機によって、半世紀前では考えられないくらいの短縮が可能となりました。
その短縮された時間を更に有意義に使用するために、便利さは追求され続けています。
けれども、冒頭の湯川博士の歌は、時の流れの狭間で時間に追われ、いつの間にかイライラとストレスの生活に陥っている自分の姿を省みさせてくれます。
確かに猛スピードで変化していく現代社会の中で、一旦立ち止まり、辺りを見渡すような余裕を失いつつあるのかも知れません。
時間に余裕があるにも関わらず、かえって時間に追われ、自分自身の進むべき方向が見極めにくくなっているように感じるのです。
私はどんな人生を生きたいのか、何を幸せと感じ、何を喜びと受け止めて、さらには何を悲しみと感じ、何を痛みと受け止めて人生を歩もうとしているのか、大きな課題が眼前に現れることもあるでしょう。
三つの道しるべ
学生時代の話ですが、私はある友人に、「君には生涯で欠くことの出来ないであろう一人の師・一冊の本・一人の親友が存在するか」と問われたことがありました。
彼はそう言うと、実は自分自身が紆余曲折をへて大学へ入って来たこと、そこに至るまで自分を支えてくれた先生の存在があることを話し始めました。
そして私への問いかけはその先生の教えだと言うのです。
おかげで今の自分があるし、今後も人生を歩んでいく上での確固たる信念を教わったのだと力説するのです。
さらに、人生どんなに富や名誉を手にしても、それらの大切な三つがなければ、ついには虚しさに陥るだろうと諭すように語っていたのが今も印象に残っています。
当時二十歳そこそこの友人が確信を持って、この師・この本・この親友と言い切る態度は自信にあふれているようでした。
今にして思えば、彼の大切にしていた三つとは、生涯尊敬できる先生に感謝せよ、自分を省みることのできる言葉に遇え、一緒にいると心が安らぐ親友を持て、という意味ではなかったかと振り返ってみるのです。
彼にとっては「生き方」や「生きざま」を導いてくれる存在が、先生との出遇いそのものだったのでしょう。
一生涯を通して導いてくれる「出遇い」は豊かな人生の歩みに繋(つな)がっていくということではないでしょうか。
み仏の影さまざまに
しかし、人生には自分では選ぶことのできないさまざまな出会いがあり、どんな心構えで接していくべきなのかはそれぞれ難しい問題です。
友人のように自分を導いてくれる先生ばかりでなく、現実には何らかの対立する立場に生きてゆかねばならないこともあるでしょう。
では、浄土真宗に生きる私たちは、その出会いをいかに受け止めればよいのでしょうか。
基本的に人と人とが出会っていく場において社会が成り立ち、同時にそこでは多種多様の思惑が交錯するようになります。
利害第一の関係もあれば、心のつながりに重きを置く関係もあるでしょう。
その関係は自らが求め選んでいくものです。
ただ、まことの「出遇い」を求めるならば、決して都合のいい人だけを必要とするのではなく、あらゆる出会いをご縁と受け止め、わが身を省みることから始めたいものです。
臼杵祖山(うすきそざん)師の歌は、それをよく顕わしています。
み仏の影さまざまにあらわれぬ
同朋知識ひとびとのうえ
人間はともすれば、根拠のない好き嫌いや基準の曖昧(あいまい)な善悪にとらわれてしまうものです。
自分の非を認めず、都合の悪いことはすぐに他人のせいにしてしまいがちです。
この歌はそういった自己中心的な「生き方」や「生きざま」からは到底理解できないに違いありません。
阿弥陀さまのはたらきは影がつき従う如くにさまざまな形を取って顕れてくださることを「おかげさま」と、感謝の心を込めて語られています。
しかも、それが親しい仲間や先生だけではなく、あらゆる人々の上にも窺(うかが)えるというのです。
われわれは桜の花を愛(め)でる時、きれいに咲いた花びらに眼を向けても、花を支えている枝葉や幹、そして地中の根にまで心及ぶことは極めて希(まれ)なことです。
けれども地中深く命の根を張り、花びらの美しさを支えていることに気付いていくことができれば、そういう想いで人間を見つめることができれば、同情ではなく共感の心をもって、温かな人間関係へと深めていけるのではないでしょうか。
何気ないことかも知れませんが、「君のつらさが解(わか)るよ」と「君のつらさを解ってあげられなくてごめん」のそれぞれの意味とその違いを状況に応じて受け止めることができれば。
そういう心のこもった「出遇い」を大切にしていきたいものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |