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共にご縁を結ぶ みんなの法話

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共にご縁を結ぶ
本願寺新報2007(平成19)年5月20日号掲載
龍谷大学講師 辻本 敬順(つじもと けいじゅん)
鑑真和上と温家宝首相

先月、中国の温家宝(おんかほう)首相が来日し、国会で演説をされました。

その演説の最後に、「揚(よう)州・大明寺の鑑真(がんじん)記念堂に一つの石灯籠があります。
これは、一九八〇年に日本の唐招提寺の森本孝順長老が自(みずか)ら送り届け、自ら灯したものです。
この石灯籠は日本の唐招提寺にあるもう一つの石灯籠と一組になっています。
この一組の灯籠は今なお消える事無く燃え続け、はるか遠くから互いに照り映え、中日両国人民の子々孫々にわたる友好の明るい将来を象徴しています」と述べ、両国の友好実現のために、アジアおよび世界の平和と発展のために、ともに奮闘努力することを期しました。


5回の失敗12年の歳月
奈良時代。
日本では仏教が広まり、経典や仏具は入ってきましたが、正式の僧となる儀式(十人の師僧が必要)は行えず、戒律の先生もいませんでした。
中には、税や労役を免れるという理由で僧になるなど、僧になるためのきちっとした定めがなかったのです。

そこで、中国への留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が揚州・大明寺の鑑真和上を訪れ、正式な受戒のために、戒律の師僧の来日を懇請しました。
そのとき、和上は身命を惜しまず、自分自身が渡日することを決断されたのです。

それからの和上の来日は苦難を極め、十二年の歳月と五回の渡航失敗の末に失明し、六度めにようやく薩摩の国にたどり着きました。
六十六歳でした。
翌年、奈良の都に入り、東大寺に戒壇を設立し、天皇をはじめ多くの人びとに正式な受戒をし、やがてその根本道場となる唐招提寺を創建されるのです。

温家宝首相も国会演説でそのことにふれ、「鑑真和上は衆生済度の仏法を日本に伝え、長年の宿願を果たすために、通算十二年もの歳月を費やしました。
鑑真和上は中日両国人民の友情を増進するために自分のすべてをささげられました」と述べられています。

和上は七十六歳で亡くなりましたが、戒律を中心とした仏教以外にも、書道、彫刻、建築、医薬などに詳しく、日本文化に貢献し、大いなる影響を与えたのでした。

仏教本来の「結縁」とは
昨年、縁あって唐招提寺の松浦俊海長老とお会いし、色紙を頂戴しました。
そこには、「共結来縁」と書かれてありました。

この書は、鑑真和上に渡日を決意させた言葉として知られているものです。
『東征伝』によれば、日本の長屋王が中国の僧たちに、

<pclass="cap2">山川異域
風月同天
寄諸仏子
共結来縁

(山川域を異にすれども、風月天を同じくす。
諸々の仏子に寄せて、共に来縁を結ばん)の四句を刺繍(ししゅう)した千枚の袈裟を贈ったといいます。
この文言がのちの鑑真和上の渡日の機縁になったのです。

「われわれ仏の弟子たちが多く集まって、将来への縁を結ぼうではないか」と鑑真和上がおっしゃったのであろうと解釈したいと、松浦長老は述べられ、「就任以来、この言葉を書いています」と語られました。

私はこの書を拝見し、長老のお話を聞きながら、仏教は宗派の違いを超えて、「ご縁を結ぶ」ことが何よりも一番大切なことだと思いました。

『仏教語大辞典』によると、「結縁」の項に「ゆかりを結ぶこと」「仏縁を結ぶこと」「仏教に関心の無い人に関心をもたせて、関係づけること」とあり、さらに「極楽往生の縁を結ぶこと」とありました。

「結縁」は単に人と人との関係を結ぶだけでなく、本来の意味は仏さまとご縁を結ぶことでした。
一人ひとりが仏さまとご縁を結ぶことによって、人と人との縁もまた結ばれるのでしょう。

最近、日本人は人間関係が希薄になってきた、そして仏さまとの関係はもっと希薄になったといわれます。
それにはいろいろな事情があるのでしょうが、ご縁を結ぶ機会が少なくなったからではないでしょうか。

五月二十、二十一日は親鸞聖人のご誕生をお祝いする宗祖降誕会(ごうたんえ)です。
これを機に仏縁を結んでくださることを切に願います。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/