六連島のお軽さん みんなの法話
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六連島のお軽さん
本願寺新報2005(平成17)年5月20日号掲載
勧学 渡邉 顯正(わたなべ けんしょう)
法悦の歌をいま味わう
下関の沖合の六連島(むつれじま)のお軽さんは、妙好(みょうこう)人として知られています。
お軽さんは不思議な因縁によって、ご法義をよろこぶ身となられ、各地にお参りされて、お聴聞に、お聴聞を重ね、時には、荷物運送の伝馬船(でんません)の便に乗せてもらい、遠く豊前(ぶぜん)まで、普段着のままでも、お聴聞に出かけられたと聞いております。
そのお軽さんの法悦の歌は、多くの人に知られてはおりますが、いま一度、その一部を思い出して、味わってみたいと思います。
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">聞いてみなんせ まことの道を
無理なおしへじや ないわいな
まことをきくのが おまへはいやか
なにがのぞみで あるぞいな
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">自力はげんで まことはきかで
現世(げんぜ)いのりに みをやつす
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">思案めされや いのちのうちに
いのちをはれば あとじあん
領解(りょうげ)すんだる その上からは
ほかの思案は ないわいな
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">ただでゆかれる みをもちながら
おのがふんべつ いろいろに
おのがふんべつ さつぱりやめて
弥陀の思案に まかしやんせ
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">わしがこころは 荒木の松よ
つやのないのを おめあてに
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">きのふ聞くのも 今日またきくも
ぜひにこいよの およびごへ
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">重荷をおうて 山坂すれど
御恩おもへば 苦にならず
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">たかい山から お寺をみれば
御恩とふとや たからやま
たから山には 足手をはこぶ
むなしかへりを せぬやうに
<pclass="cap2"> ◇
<pclass="cap2">まことしんじつ 親さまなれば
なにのえんりよが あるかいな
親さまとはだれのこと
お軽さんは、お寺は「宝山」といい、皆々、足手をはこんで、お聴聞なされるところと申されました。
そのような有り難い法悦の歌をいただいて、私事ですが、若い時から不思議な宿縁によって、お聴聞を重ねてまいりました。
お軽さんの法悦の歌の中にもありますように、はじめは、「まことしんじつ、親さまなれば」という、「親さま」とは、誰のことを親さまというのであろうかと、私は疑問をもっておりましたが、お聴聞を重ねる中に、「阿弥陀さま」のことを「親さま」ということを知らされました。
そのようなことで、お聖教(しょうぎょう)を拝読いたしますと、親鸞聖人は、阿弥陀さまのことを「徳号の慈父(じふ)」「光明の悲母(ひも)」(註釈版聖典187ページ)といわれました。
また親鸞聖人は、「厳父(げんぷ)のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導(くんどう)するがゆゑに」(同201ページ)とおっしゃられてあります。
私たちが悪心を起こし、悪い行為をなさんとする時には、阿弥陀さまは厳しい父として誡めて下さるのです。
また、「乳母(にゅうも)のごとし」(同201ページ)ともおっしゃり、一切善悪の往生人を養育し、守護され、阿弥陀さまが母であるとお示し下さってあります。
そして、「釈迦・弥陀は慈悲の父母(ぶも)」(同591ページ)とも説かれてあります。
これらの意義を深く聴聞なされたお軽さんは、阿弥陀さまのことを「親さま」と申されたので、この世の親は一世限りの親ではありますが、阿弥陀さまの親さまは未来永劫にかけての親さまと領解させていただきました。
また、法悦の歌の中に、「思案」という言葉を使われていますが、これは蓮如上人が「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟(しゆい)の本願にすぎたることはなし」(同・千311ページ)と示されたことを聴聞され、味わわれたお軽さんでありますから、「領解すんだるその上からは、ほかの思案はないわいな」と歌われたこととうかがうことができます。
安政三(一八五六)年、五十六歳で往生されたお軽さんは、
<pclass="cap2">なきあとにかるを たづぬる人あらば
弥陀の浄土に行(い)たと こたへよ
と辞世の歌をのこされました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |