光に照らされることによって 心の闇の深さがわかる
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寺の廊下を大急ぎで走っているつもりなのに、他人から見ると呑気そうに悠々と歩いているようにしか見えない…。そう、まるで動物の“ナマケモノ”のようです。自分の姿は自分ではわからないものなのでしょうが、私に対する他人の評価にはたびたび呆然とすることがあります。
そんな私ですので、寺の生活は多少荷が重く、何をしても大体中途半端にタイムオーバーとなってしまいます。日々の掃除も一応、一生懸命しているつもりですし、まあ、きれいになっていると思い込んでいるのですが、少し念入りに掃除をはじめると、普段見て見ぬ振りをして通り過ぎているところや、手の届かないところ、隠れて見えないところ等々、見えるところだけを繕うように掃除して、腰をかがめたり背のびをしてよくよく見てみると、あそこもここもほこりだらけです。いつの間にか、ゴミや汚れやほこりまで日常の風景となって、何の異和感もなく受け入れてしまっているのです。考えてみれば、「時間も足らないし、まあこの辺で…」と、妥協と自己肯定で私の生活全般は毎日大抵終わっています。そんな自分をたまには反省してみても、それも長くは続かなくて、またいつの間にか、すっかり癖のついた私の掃除が繰り返されるのです。一体私の心はどれほどきたなく汚れているのでしょうか。それが、わからないのです。日々の生活の中で「わかったつもり」にしていることや、「知っている」と通り過ぎていること、また、私の奥底に潜んでいる差別の心や残酷な心が無自覚なままに人を攻撃したり傷つけたりしているのでしょう。
先日、軒先に巣を作っていた燕のひなが、やっと巣から飛び立っていった時のことでした。親燕の懸命な姿をずっと見ていただけに、ひなの巣立ちはとても感動的でした。それで中学生の息子が学校から帰ってくるや否や、少し興奮気味にひなの巣立ちのことを伝えたところ、「ところで、お母さん、それがゴキブリの子どもだったらどうする!?」と聞かれ愕然としたことがありました。ゴキブリの子どもだったらまったく逆の気持ちであったことはいうまでもありません。でも、中学生の息子には、燕の赤ちゃんもゴキブリの赤ちゃんも同じ“いのち”であることに疑いがなかったのでしょう。そして、その目で私の矛盾を見破ったのです。教えようと思っていた息子から逆に教えられた出来事でした。
多くの先輩方のことばをたずね、人に出会い、でも、聞いても聞いても、出遇っても出遇っても、さらに見えない私。
光に照らされるということは、照らされた人の足元にできる影の大きさ、その色の深さが教えてくれるのかもしれません。そして、その影に気がついた時、私はもっともっと涙を流すことになるのでしょう。
たくさんの涙で顔を洗って、「ニコッ」とほほ笑みあえる、そんな世界がそこにはあるように私には思えるのです。
三池 真弓
1961年生まれ。福岡県在住。
久留米教区明正寺。愚禿の会。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。