何を受け伝えるのか? みんなの法話
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何を受け伝えるのか?
本願寺新報2006(平成18)年4月20日号掲載
広島・明円寺住職 竹田 嘉円(たけだ よしまる)
亡くなったはずの方が
あるご門徒さんのお通夜の時の話です。
荘厳壇(しょうごんだん)には、少しほほ笑んだ生前のおばあさんの大きな写真が置いてありました。
私は、お正信偈のおつとめの間、時折その写真を見ては、生前のおばあさんのことを思い出していました。
そして、おつとめも終わり、いよいよご法話に移るため振り返って参列者の方を向いたとき、ビックリして、思わず声を出しそうになりました。
なんと私の目の前には、亡くなったはずのおばあさんが...。
でも、おばあさんの遺体は確かにお棺の中です。
そこで、その方に尋ねてみると...。
そのおばあさんはニッコリしながら「もちろん違います。
私は妹です。
亡くなった姉と私は双子じゃないのですが、いろんな人から"瓜ふたつ、二人はそっくりね"って、よく言われました」とおっしゃいました。
私も今は少しふとってしまったので違うのですが、学生の頃は、人からよく亡くなった父に顔が似ていると言われました。
みなさんも顔やしぐさなどが、お父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんに似てると言われたことはないですか。
「そう、そう」と思い当たられる方も多いのではないでしょうか。
そうです。
私たちは知らない間に、親や祖父母をはじめ、たくさんのご先祖から、いろんなものを受け継いできているのです。
あるわけがないやろ!
よく、私のいのちは無数のご先祖とのつながりのなかで成り立っている、ということを聞きますが、この途切れることのないいのちのつながりに思いをめぐらすということは、ご先祖から何を大切なものとして受け継いできたかを考えることだと私は思います。
また、それは同時に私たちが次の世代へ何を伝えていくかを考えることだとも思います。
お通夜や葬儀などの仏事は、亡くなられたご先祖のことを偲ばさせていただくとともに、ご先祖から何を大切なものとして受け継いできたか、また次の世代へ何を大切なものとして伝えていくのかを、お念仏を申しながら、お聴聞をし、見つけていくことだと私は思っています。
思えば、私が亡くなった父に「うちに釣りざおってあるの?」と聞いたとき、父は「うちに釣りざおがあるわけないやろ」と少し怒りながら言い、釣りざおがない理由を次のように話してくれたことを、今でも私は大切に覚えています。
――いのちをもつものは、人間だけではない。
魚も、牛も、豚も、野菜も、みんないのちをもっている。
だから、遊びで魚を殺すことだけはやめてくれ。
漁師さんはそれをなりわいにしておられる。
決して遊びじゃない。
それでなくても人間は、魚だけでなく、たくさんのいのちを奪わないと生きていけないのだ。
だから食事の前には合掌し、感謝していただくのだ。
「いただきます」とは、生き物のいのちをいただくこと。
いろんな生き物からいのちをいただいて私のいのちは成り立っている。
だから、このいのちを大切にし、無駄に生きてはいけないのだ。
そして、食事を終える時には、「ごちそうさまでした」と感謝して終える。
ちそう(馳走)とは、あれこれ走りまわって世話をするという意味だ。
一回一回の食事は、それを作ってくれる人だけでなく、いろんな人のおかげであるのだ。
生きるということ自体が、いろいろないのちの上にあることなのだから、遊びで魚を殺すことだけはしないでくれ――
思い出して大切なもの
正直、この時には、父の言うことはうっとうしいと思うばかりで、私にはあまりピンときませんでした。
しかし、今となってみると、父は父なりに一生懸命、仏さまの教えを幼い私に伝えようとしていたのだなぁとしみじみ感じます。
みなさんも、おじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんが、何を大切にして生きていくようにとおっしゃったか、一度思い出してみてください。
そして、本当に心に残ることがあったら、身近な人や次の世代へお念仏を申しながら伝えていきませんか。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |