何かが違うはず みんなの法話
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何かが違うはず
本願寺新報2004(平成16)年8月2日号掲載
熊本・光専寺住職 高木 幸照(たかき こうしょう)
ラーメンに入れる物?
「先生、こんにちは」
元気な子どもたちの声が響きます。
「よく来たね。
お上がりなさい」
「お邪魔しま~す」
「時間になりましたので、土曜学校を始めます。
本堂へ集まって下さい。
おつとめをいたします」
「先生、今日は何のおつとめですか」
「重誓偈をおつとめします。
赤い聖典を用意して下さい」
「は~い」
土曜の午後、いつもの光景です。
続いて法話の時間です。
「それでは仏さまのお話を始めます。
足を楽にして下さい。
今日は『にんにく』についてお話をします」
「先生『にんにく』ってラーメンに入れるものでしょう」
「そうだね。
ラーメンに入れるのも『にんにく』、仏教にも『にんにく』という言葉があります。
難しい漢字ですが『忍辱』と書きます。
意味は、耐え忍ぶ・辛抱するということです。
みなさんは『チョームカツク・マジギレ』という言葉を知っていますか」
「知ってるよ。
時々使うよ」
「そうか使うのか。
(がっかり)今日からは使わないようにしましょう」
子どもたちを取り巻く環境は、私が幼かった頃とはすっかり変わってしまい、小学生といってもストレスの多い時代になったようです。
そんな中で「ムカツク」ことや「キレル」ことも少なくない子どもたちにとって、耐え忍ぶ・辛抱することは非常に難しいことでしょうが、とても大切なことだとみんなで話し合いました。
憎しみ捨て仏道求める
ところで、親鸞聖人のお師匠である法然上人は今から約八百七十年前、現在の岡山県でお生まれになられました。
九歳の時、お父さんが夜討ちにあい、いのち終わってしまわれました。
まさにいのち終わろうとするとき、幼い法然さまを枕元にお呼びになって、「武家のならいによって敵討ちをしようと思ってはなりません。
父を斬った者を憎んで敵討ちをすれば、その子がお前を敵と狙います。
憎しみは憎しみを増してつきることはありません。
憎しみは捨ててこそよく憎しみを超えられます。
あなたは憎しみを捨てて僧侶になり、仏道を求めて生涯を送りなさい」と申されました。
幼い子どもにとって、父親が殺されるというのは、耐えがたい事件であったに違いありませんが、法然さまはお父さんの遺言を忘れず、憎しみを捨てて仏道を歩む生涯を送られたのでした。
『無量寿経』に「忍力成就して衆苦(しゅく)を計らず」(註釈版聖典26頁)とあります。
「どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず」と意訳します。
仏道修行を完成するには、あらゆる苦難に耐え忍ばねばならないということでしょう。
しかし、私たちも仏さまや法然さまのように、怒りや憎しみを起こさないように耐え忍んでいかねばならないのでしょうか。
私たちはいのちある限り、煩悩・欲望のある限り、怒りや憎しみを捨てられそうにはありません。
怒りや憎しみはさまざまな縁によって、次から次へと起こってくるようです。
親鸞聖人は「正像末和讃」に「如来の作願(さがん)をたづぬれば、苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」(同606頁)とお示しです。
欲望を捨てられない人間の姿を深く悲しんで下さったのが阿弥陀さまでした。
阿弥陀さまは苦悩の私を見捨てることができず、南無阿弥陀仏のみ名となって至り届けて下さいました。
そのみ名をいただかれた親鸞聖人は、ご自身を「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身」と申され、罪を恥じることない我が身であると、心中の思いを述べられています。
ご門主の著書『朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて』には「憎しみも怒りも、自分の欲望がなせるわざだと知ることが大切なのです。
憎しみを相手のせいにするのでなく、私のこころがそれを生んだのだと自覚することです。
それができれば、ただ憎しみや怒りを抱いていたときのあなたとは、何かが違うはずです」とお書き下さっています。
阿弥陀さまのお心をいただき、自己を見つめて、怒りや憎しみは相手のせいではなく、私のこころが生むのだと知らされるとき、つつましい生活、報恩感謝の人生が開かれることでしょう。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |