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体で実感! みんなの法話

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体で実感!
本願寺新報2004(平成16)年10月1日号掲載
布教使 義本 弘導(よしもと こうどう)
日本一暑い夏の日に...

数年前の夏、私が住んでいる大阪の枚方(ひらかた)市が、日本一暑い気温を記録しました。
その日もスクーターに乗ってお参りをしていました。
あるお宅に寄せていただきますと、お仏間を十分に冷やしてご門徒さんが待っておられました。
私はヘルメットを脱いで、したたり落ちる汗をタオルでぬぐいながら入っていきますと、涼しい部屋で待っておられたご門徒さんが「今日は暑いですね」と。

それで私は、「はあ、そうですね」と答えますと、それに続いてご門徒さんが「それで、どれほど暑いですか」とおっしゃいました。

ちょっと外に出ればすぐにわかるのにと、少しムッとしたのですが、それでも平静を装いながら「そうですね、この暑さでしたら、三十五度を超えているのではないですか」と返答して、その自分の答えを自分自身反芻(はんすう)してみて、あれっと思ったのです。

皆さんはどうですか。
この答え、当たり前に聞こえますか。
私は当たり前に答えながら、でも何かおかしいなと思えたのです。
もう一度考えてみて、ハッと思い当たりました。
数字で答えているではないかと。
ちょっと昔を思い出してみますと、暑い寒いを数字で言うことはなかったように思います。

例えば「ちりちりと焼けるように暑い」とか「溶けるような暑さ」とか「切れるように寒い」というように、体で受け止めた表現をしていたのではなかったですか。
それが、最近では天気予報で言うように、最高気温は何度という表現なのです。

人生を振り返ってみて
つまり、体全体で受け止めていたものを頭で受け止めるようになったのでしょう。
それは、実感していたものが理解に変わってしまっているのです。
でも、数字で聞いて、その温度が浮かびますか。
頭ではわかっているつもりですけれども、なかなかわからないのではないでしょうか。
これは気温の話だけでなく、さまざまなことを体で受け止めずに、頭で理解しようとしているのではないでしょうか。

また、頭で理解することの方が良いように思ってはいないでしょうか。
現在は、体験して実感することよりも、知識を頭に詰め込んで理解することの方が大事だという風潮があるように思えます。

ところが、私たちの人生は、すべて理解できることばかりでしょうか。
知識でわかって、納得できることばかりでしょうか。
そうではないと思いますよ。
それどころか、理解できなかったり、納得できなかったり、割り切れないことほど、深刻な問題であり、人生の苦悩といえるのではないですか。
今一度、皆さんの人生を振り返って考えてみてください。

どうですか、すべてのことが納得できましたか、理解できましたか。
大切な人との別れを経験された方もいらっしゃるでしょう。
また、ご自身が重い病気にかかったり、事故にあった方もいらっしゃるでしょう。
そんな時、「なるほど、そういうことなのか、これは仕方ないな」と納得できましたか。
割り切って考えることができましたか。
そんなことはないはずです。
それどころか、今までの知識が全く役に立たない、理解していたことが無意味だったと、嘆いたり、絶望したりしたのではありませんか。
知識をつけること、理解することが人生にとって最良だと思っていたならば、その時点で人生は音を立てて崩れていくことでしょう。
頭で理解することではなく、体で実感していくことが大切なのです。

身で聞くと領解になる
「聞く」ということを、ある方が、頭で聞くと理解になる、心で聞くと共感になる、身(からだ)で聞くと領解(りょうげ)になる、とおっしゃっていました。
そういえば、ご法話が終わって最後にみんなで声をそろえて「もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力のこころをふりすてて...」と唱えるご文を『領解文(りょうげもん)』といいます。
これは蓮如上人がお作り下さったといわれていますが、これこそ、私たちが出遇(あ)わせていただいたお念仏のことをハッキリと示して下さっています。

つまり、お念仏は、耳で聞くものでも心で聞くものでもない、身で聞くものだから領解になるのです。
領解するとは、体で実感していくことでしょう。
お念仏する今まさに阿弥陀さまに出遇い、必ず救うという阿弥陀さまの願いにしっかりと抱かれていることを実感していくのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/