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住職が住職を演じて みんなの法話

提供: Book


住職が住職を演じて
本願寺新報2007(平成19)年3月10日号掲載
石川・乗敬寺住職 石田 太郎(いしだ たろう)
心にのこるこのセリフ

一真(いっしん)住職 どないや、落ち着いたか?

健次郎 いや、何か家の中バタバタしてて

一真 子どもらは?

健次郎 タカシはまだ何かあったら泣いてる

一真 そやろな・・・、母親が亡くなったことを受け入れられへんねんで

健次郎 ・・・・・・

一真 昨日までいた人が急に自分のそばからいんようになる。
自分が何にも悪いことしてへんのに罰でも受けたようになあ

健次郎 ほんまですわ

一真 けど、それは罰やない。
教えや。
人間は必ず死ぬということを教えてくれてるんや・・・

健次郎 ・・・・・・

一真 人間にはいつか死がやってくる。
それを知って毎日を生きることは大事なことや。
まあ、小さいタカシ君にそこまで理解せいゆうのは無理やけど・・・

このつらさと向き合うことは無駄にはならへん。
自分や他人を大事に思うようになる・・・

健次郎 ・・・・・・

<pclass="center">◇

ここで私が演じているのが、近所のお寺の住職・一真です。

浄土真宗の住職としてはまだまだ新米の私ですが、役者生活はもう四十年以上になります。
そんな私も、このシーンのセリフには特別な思い入れがあり、また、私の心にしみるものがありました。

言葉にならない寂寥(せきりょう)感
というのも先年、三十年連れ添った妻が急逝したからです。
体調が悪いといって病院で診てもらった時には、すでに余命一カ月との診断。
その言葉通り、一昨年の九月二十三日、お彼岸の中日に往生しました。

そのさびしさ、寂寥(せきりょう)感というものは言葉になりません。
いまも心の中にあいた空間が、うまらないままでいます。

先ほどのシーンに続いて、一真住職はこのように語ります。

「悲しむだけ悲しんだらええ。
考えるだけ考えたらええ。
その時間は仏さんがわれわれに与えてくれはった時間なんや。
なんぼつこうてもかまへん・・・」

考えてみますと、私たち現代人は、お通夜やお葬式、そして法事といった仏事を、ややもすると形式的に、また単なる通過儀礼や習俗のようにとらえてしまってはいないでしょうか。

たとえ仏教に縁がなかったり関心がなかったとしても、本来はもっと何か大切なものにふれ、大事なことを考える時間ではなかったかと、このシーンを通してあらためて感じさせられました。

善導大師は、お念仏に生きることを「学仏大悲心(がくぶつだいひしん)」(仏の大悲心を学ぶ)とお示しになられました。
それは「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(おさめとってすてない)という如来の無限の慈悲をこの身にいただくことだと親鸞聖人は教えてくださいました。

今年もまたお彼岸が近づいてきました。
亡くなった妻のことが、いっそう偲ばれる季節です。
そして、そのような思いの方は、全国に大勢おられることでしょう。

スタジオも伝道の場に
亡くなられた方をご縁に営む仏事。
これを大切に、心を込めて、そして本来の意義を考え丁重におつとめすることで、「宗教砂漠」といわれる現代の人々の心にも「何か大切なもの」「何か大事なことを考える時間」というものが伝わるのではないでしょうか。

そしてそれがひいては「仏の大悲心を学ぶ」という、真の仏縁となっていくと私は思うのです。

芸能界に身を置く住職として、お葬式や法事のシーン、あるいは合掌の仕方一つにしても、「浄土真宗ではコレコレなんですよ」と、出演者やスタッフにさりげなくお話させていただくことがあります。
住職としてはささやかなことですが、それがきっかけで話題が広がったりすることもしばしばです。

実は「一真住職」という登場人物も、田辺聖子先生の原作にはなく、私が出演するということで新たに脚本に書き加えられた役柄でした。

このようなことも、私なりの一つの伝道活動ではと思いつつ、ご縁ある限り、役者と住職という二足のわらじをはき続けていけたらありがたいなぁと思っております。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/