操作

伝えたかった"嘘(うそ)" みんなの法話

提供: Book


伝えたかった"嘘(うそ)"
本願寺新報2006(平成18)年12月1日号掲載布教使 森 智崇(もり ともたか)お父ちゃん聞いて!お酒好きな方の会話から「一人反省会」という言葉をよく耳にします。
お酒の席でつい度が過ぎてしまい、翌日一人で反省をすることのようです。
私もたまにこの反省会を開くようになりました。
お酒の席というより、多くは心の内の悩みを相談した時です。
</p>悩みの相談は気軽に誰にでも出来るものではありません。
やはり、信頼できる人、私を受け入れてくれる人にします。
けれども、その方が、ただただ聞いてくれるほど、相談ではなく、気付けば一方的に私が語っているのです。
その時は気持ちが晴れるのですが、後から迷惑をかけてしまったのではないかと反省をします。
しかし、もし私の悩みを頭から否定されていたら、心の内を開くことはなかったでしょう。
ますます悩みは膨(ふく)らみ苦しんでいきます。
相談事とは言いつつも、本当は相談ではなく、ただ悩む私をそのまま受け入れてもらいたいのです。
</p>そんな場所を、あるご門徒さんは私に教えてくださいました。
その方は早くに夫と死別され、母一人で娘さんを育てられました。
今では娘さんも結婚し、一児の母となっています。
一見幸せそうに思われましたが、実はお孫さんが生まれてから娘さんとの口論が増えたようです。
</p>「娘は母になっても、私にとっては娘です。
つい余計なことを言ってしまうのです」と心の内を教えてくれました。
そしてそんな時は決まってお仏壇の前に来られるそうです。
お仏壇の前に座り「お父ちゃん聞いて!」と、亡き夫に思いのたけをすべて口に出し語るそうです。
</p>「その時の口調や言葉はとても世間では許されるものではないのですけど、阿弥陀さまは全部聞いてくださいます。
そうしているうちにだんだん落ち着いて、私も言いすぎたなって反省をするんです。
でもこの場所を離れられないから、ここから娘に『ごめんねー』って謝るのですよ。
娘にも聞こえてるのでしょうね、ちゃんと返事が返ってきます」</p>そう言われ、恥ずかしそうに、またうれしそうにお念仏される姿からは、お念仏申す慶びが伝わってきました。
阿弥陀さまは他人には語ることのできない私の苦悩をすでに見抜き、立ち上がってくださっています。
そして、自らの悩みにとらわれるばかりに自分の姿も相手の姿も見えなくなっている私を、阿弥陀さまのはたらきによって知らされます。
私の苦悩がすべて受け入れられ、私の姿が知らされるところには、自らを恥じつつも抱(いだ)かれてある慶びが沸(わ)いてきます。
そこから苦悩の解決の道が開かれていくのです。
</p>身内のことですから...そのご門徒さんは、こんな話もしてくださいました。
ご近所に長く夫の介護をしているおばあちゃんがいました。
高齢での介護は見ていられなく、年々やつれていく姿に毎日声をかけていたのですが、決まって返事は「身内のことですから」と断られたようです。
</p>そんな中、ご主人の往生を聞き、お手伝いに行くのですが、お通夜、出棺、葬儀とすべて気丈に振舞っている姿を見て、ご門徒さんは「腹が立った」と言われます。
そして葬儀も終わり、お手伝いのお礼におばあちゃんが来られた時、まずお仏壇の前に座ってもらい、今までの姿を見るに耐えなかったことを伝え、最後にこう言われたそうです。
</p>「亡くなってよかったね」</p>すると今まで気丈にしていたおばあちゃんはワーッと泣き崩れ、ご門徒さんの手を握り締め何度も何度も「有り難う」と言われ、「あの人もつらかったろうね」とまた涙を流されたそうです。
それはいつも阿弥陀さまに相談されるご門徒さんの伝えずにはおれなかった嘘でした。
私たちは、そんなこと心に思ってはいけないと思えば思うほど、その悩みはますます深く広がり、苦しんでいくのでしょう。
</p>見捨てない如来の大悲親鸞聖人はご和讚で「如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就せり」(註釈版聖典606ページ)と慶ばれます。
阿弥陀さまは一人苦しみ悩む私に、私の苦悩をすべて引き受け、決して見捨てない大悲、南無阿弥陀仏と名のり続けてくださっているのでした。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/