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他力の信心を獲得するのは ただ法を聞くという道しかない

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浄土真宗は「聞法(もんぽう)の宗教」であり、法のあるがままをお聞かせいただいて救われていく教えです。ですから聞法を何より大切にしています。

 親鸞聖人は「『聞其名号(もんごみょうごう)』といふは、本願(ほんがん)の名号(みょうごう)をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願(ほんがん)をききて疑(うたが)ふこころなきを『聞(もん)』というなり。またきくといふは、信心(しんじん)をあらはす御(み)のりなり」(註釈版聖典678頁)と示されています。

 つまり聞法とは「いっさいの衆生(しゅじょう)を必ず救いとって浄土に生まれさせよう」という誓願(せいがん)が成就(じょうじゅ)された本願の名号(南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))を疑いなく聞きひらくことであり、その阿弥陀仏の喚(よ)びかけどおりに聞き受け、何のはからいもなくそのお救いにまかせたことを信心というのです。また信心は、仏の大悲のまことをこの身に賜(たまわ)ることですから、仏さまのはたらき一つで自然に浄土に往生させていただくのです。

 霊山(よしやま)先生は「信じるという一般の語は、思い込む、念(ねん)じる、祈(いの)る、あるいは信念などの語と類似していて、私の意志の力で作り上げる心理作用である。これに対して他力の信心は阿弥陀仏の本願という法則を聞いて、なるほどとうなずくことである。それは法則を私の中に受け入れることであり、私的な我執(がしゅう)に代わって本願という法則が私の拠点(きょてん)になることである」(『歎異抄-親鸞己れの信を語る-』)と、他力信心の核心をわかりやすく解(と)き明かしてくださっています。

 聖人は「浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである」と述べられています。それは、如来のはからいによって自然に浄土に往生することは易(やす)いことであるけれども、己れの信念や意志がかたく、とらわれ心がつよい私たちには、如来の真実に心を開き、その法則を受け入れることは至難(しなん)のことであるといわれるのです。

 浄土真宗は、一定期間集中的に念仏したり聴聞(ちょうもん)すれば信心が得られるとか、決められた聴聞の回数や学習段階の目標を一つひとつ満たしていけば必ず信心に到達する、というような教えではありません。近道(ちかみち)を探すことよりも、ただひたすらに聞いて、じつはその過程(かてい)の一つひとつにこそ意味があると思われます。また、たとえ信心が得られたからといって、そこで聴聞が終わりになるわけでもありません。聴聞には生涯卒業はないのであります。

 仏の御前(おんまえ)にどこまでも愚(おろ)かな自身を投げ出し、ひとすじにそのおこころを聞き、仏の法則にまかせていくばかりであります。


貴島 信行(きしま しんぎょう) 1951年、大阪生まれ 真行寺住職・龍谷大学講師・中央仏教学院講師・本願寺派布教使



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。