仏教を聞きはじめると みんなの法話
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仏教を聞きはじめると
本願寺新報2004(平成16)年4月1日号掲載
龍谷大学講師 佐々木 覚爾(ささき かくじ)
苦労重ねたあげくに...
ずいぶん前になりますが、テレビ番組で、勝者は温泉での贅沢三昧、敗者は制限時間内に、自転車に乗って遠く離れた温泉までたどり着かねばならないというゲームがありました。
勝者は温泉につかりながらお酒を飲み、背中を流してもらい、お風呂上がりには美女と一緒にご馳走を食べています。
かたや敗者は、その間も、汗だくになって自転車をこぎ、目的地の温泉に向かうのです。
お金もないので、食べ物をめぐんでもらい、野宿の予定が、からくも民家に泊めてもらうといったありさまです。
延々と続く坂道に「なんでこんな目に」と泣きごとをいい、ことあるごとに不平不満がこぼれ出ます。
そして、ついにエンディング。
敗者は温泉に着いてもお湯につかることさえ許されないという最後の試練が待っていました。
ところが、その敗者は、苦労を重ねたあげくにやっとのことで到着し、文句の一つでも言うのかと思えば、「よかったぁ...、ありがとう」と言ったのです。
これには驚きました。
番組の構成からすれば、「くやしい~」の一言を待っていたはずです。
私もその言葉を期待していました。
なのに、汗まみれの敗者の顔には、勝者よりも生き生きとした表情が浮かんでいたのです。
「よかった」だけなら、名演技の負け惜しみかとも思いましたが、気持ちのこもった「ありがとう」の一言に驚愕(きょうがく)してしまいました。
こんな人生があるのか
とりとめもないこの番組が印象に残っているのは、念仏者の姿が重なるからです。
私は仏教を聞きはじめた頃、妙好人(みょうこうにん)をはじめとする念仏者の生きざまに、「すごいなぁ、こんな人生があるのか」とショックを受けました。
語録や伝記を読みあさり、だからこそ、誤解だらけだった仏教を、ちゃんと聞いてみたいと感じるようになりました。
その影響か、仏教を聞きはじめると、どこかでなにかが変わるような気がしていました。
欲を出さなくなる、怒らなくなる、悩まなくなる、といったように、なにかが変わる気がしたのです。
でも、なにも変わらないどころか、そのことに悩み、気付けば周囲に対しても強く当たっていました。
親鸞聖人が、私たち凡夫というのは煩悩が身にみちみちて臨終まで欲や怒り、嫉妬(しっと)の心がとどまらない身であるとお示し下さっていても、そのことを聞けば、少しは変われる気がしていたのです。
お慈悲を味わう身に
ですが、なにも変わりませんでした。
敗者のように、上り坂の終わりが見えなければ、絶望感にも浸り、不平不満が口に出ます。
下り坂には、天にも昇る気持ちになります。
お腹がすけば、裕福な人にねたみを抱き、他人を傷つけることだってあります。
満腹になれば、眠くもなり、怠惰にもなります。
お念仏を聞いても、簡単に変われる身ではありません。
でも、ひとつ違うところがありました。
先の敗者が「なんでこんな目に」となげくなかで、人の温かさや思いやりにふれ、つい「ありがとう」と言葉が出たように、この思い通りにならない歩みを通して、阿弥陀さまのはかりしれないお慈悲を味わう身へとお育てをいただいていました。
妙好人と讃(たた)えられる六連島(むつれじま)のお軽(かる)さんが、このような歌を残されています。
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重荷背負うて
山坂すれど
ご恩おもえば
苦にならぬ
重荷を背負いながらの坂道は、つらく苦しい歩みです。
ときには、くじけそうになります。
また、ときには、なにかがたたったんじゃないかと、重荷から逃れて弱音を吐きたくなることさえあります。
でも、思い通りにならない歩みのなかで、そんなおまえを救わずにはおれない、必ず摂(おさ)め取って捨てないと喚(よ)び続ける阿弥陀さまのお慈悲が、そして阿弥陀さまに出遇(あ)い、お念仏をいただかれた先人のお言葉が、ありがたく身に染みるのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |