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仏教〝に〟学ぶ みんなの法話

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仏教〝に〟学ぶ
本願寺新報2006(平成18)年2月20日号掲載
武蔵野大学助教授 佐藤 裕之(さとう ひろゆき)
きっかけはインドの旅

仏教を学びはじめるきっかけは、人によってさまざまです。
私の場合は今から二十五年前、インドの地を旅したことがきっかけでした。

当時、法学部の学生であった私は、特に明確な目的も予備知識もなく、一ヵ月の間、放浪の旅に出ました。
ムンバイに入り、石窟壁画で有名なエローラとアジャンタ、最南端のケープコモリン、そして、タージ・マハル廟で有名なアグラなどを訪れました。

帰国後、インドや仏教のことを調べはじめ、旅行記や入門書などを乱読しました。
たまたま大学で開講されていた仏教関係の講義にも出席しました。
それから、卒業も近くなり、考え悩んだ末に、もう一度大学に入り直し、本格的に仏教を学ぼうと決めました。
私の実家はお寺ではありませんでしたので、今思えば、かなり大胆な決断でした。

通信教育で仏教を学ぶ
私はこのようにして仏教を学びはじめましたが、かなり特殊なケースであるかもしれません。
私が所属している武蔵野大学では、昨年の四月、通信教育で仏教を学ぶことができる「人間学専攻」を開設しましたが、入学した学生に話を聞くと、さまざまなきっかけがあります。


ある学生は看護師で、病気で苦しみながら亡くなっていく人、そしてかけがえのない家族を失ってしまった人を多く見てきた、といいます。
人は生まれた以上、老いることも、病気になることも避けられませんし、死も必ず訪れます。
生(しょう)、老、病、死の四苦です。
どんなに医療技術が進歩しても、これは避けられない事実で、この事実に向き合わなければなりません。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)も同じように考えていたと知り、仏教を学びはじめた、といいます。

また、別の年輩の学生は、会社を定年退職後、日本人でありながら、その文化の基礎にあった仏教について何も知らないことに気づいた、といいます。
人生も半ばを過ぎ、よりよく生きるための手がかりを仏教に求めたそうです。
若い頃は、仏教を何か怪(あや)しいものであると感じていたそうです。
しかし、仏教はインドの地で二千五百年前に成立し、その教えが、東南アジア、中国、韓国、そして日本にも伝わり、今までかたちを変えながら、確かに残っています。
ここに歴史の重さがあります。
もし、仏教が怪しいものであるなら、今まで残っているはずはありません。
私たちが気づかない何かがあるからこそ、今まで仏教は残ってきたのです。
それが何であるかを知り、自分の人生に役立てたい、といいます。

「を」でなく「に」の姿勢
このような学生の話を聞くと、仏教に関しては、「仏教を学ぶ」というよりも、「仏教に学ぶ」という姿勢の方が強いように思います。
法律の場合には、「法律を学ぶ」という姿勢はあっても「法律に学ぶ」という姿勢はありません。
「法律を学ぶ」ことに意味はあっても、そこから何かを学んで、直接的に自分の生き方に役立てようとは思いません。
法学部で法律を学んでいた私はそうでした。

しかし、仏教の場合、ただ「仏教を学ぶ」だけでは、意味はないように思いますし、学ぶことも面白さもないように思います。
自分が抱えている問題に関連させて、その解決の手がかりを仏教に求め、「仏教に学ぶ」という姿勢をもって仏教に向き合えば、仏教は何かを与えてくれるはずです。

そして、現代、価値観は多様化し、私たちを取り巻く環境の問題も深刻化し、家族のあり方さえも変化しています。
国際紛争も絶えることがありません。
これらの問題解決の手がかりを仏教に求めるなら、それは「仏教を学ぶ」という姿勢ではなく、「仏教に学ぶ」という姿勢が大切なのではないでしょうか。

私が仏教を学びはじめてかなりの時間がたちました。
しかし、それは法律を学ぶことと同じであったように思います。
「仏教に学ぶ」という姿勢を自覚してはいませんでした。
学生が話してくれたように、「仏教を学ぶ」だけでなく、「仏教に学ぶ」という姿勢で仏教に向き合い、仏教から何を学ぶことができるのか、学生と一緒に考えていこうと思います。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/