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仏前で祝う? みんなの法話

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仏前で祝う?
本願寺新報2002(平成14)年5月10日号掲載
本願寺新報元記者 岡橋 徹栄(おかはし てつえい)
ホンマ!! 逆やな
五月二十一日は親鸞聖人がお生まれになった日です。
各地の寺院などでは、この日をお祝いし「宗祖降誕会(ごうたんえ)」を営みます。
本山で初めて営まれたのは明治七年(一八四七)、第二十一代明如宗主の時。
この年から本山では、それまでの旧暦を改め、太陽暦を採用しています。
親鸞聖人のご誕生も、旧暦四月一日から、現在に改めました。
これを契機に、以後、毎年盛大なご法要を営み、さまざまな祝賀行事が開かれるようになりました。

降誕会といえば、母校・龍谷大学も八十年以上の歴史があり、ご本山同様盛大です。
ご法要をお勤めするほか、こちらも祝賀行事が目白押し。
特に、学生が京都市内の円山公園から三条河原まで提灯(ちょうちん)を持ってねり歩く提灯行列は、地元でよく知られています。
四条河原町の交差点を通行止めにし、数多くの明かりが揺れ動く様は壮観です。

いや、正確には「壮観らしいです」です。
実はいまだ提灯行列を実際に見たことがありません。
えらそうに語ってなんだか申し訳ないような...。

せっかくご縁がありながら、ふた昔前の在学中、降誕会で印象に残っている事といえば、他愛もない話なのです。

学内を歩いていると、降誕会告知のポスターの前で、学生が話しているのが聞こえました。
学生らは、春に入学したばかりだったのでしょう。
不思議そうに「降誕会ってナニ?」と、隣の学生に尋ねています。

「親鸞聖人の誕生日らしいで」

「行事予定に法要って書いてあるなぁ?」

「ホンマ!! 逆やな」
という会話でした。

逆? 何が逆なのかな、と思っていると「亡くなってはるから、エエのとちゃうか」と。
ああなるほど。
法要をつとめるというのは、亡くなった人に対する儀式だから、生まれた日をお祝いすることとはまるで逆だ、という意味なのでした。

慈悲の光に包まれて
どうです、他愛もない話でしょ? なぜこんな事を覚えているのかといいますと、法事をはじめとする世間の仏事の理解において、今に至るまで、同じような出来事に出会うことが少なくなかったからです。
いまだ、仏事=慰霊の印象が強いですね。

みなさんがおつとめする正信偈のご和讃に

<pclass="cap2">智慧(ちえ)の光明(こうみょう)はかりなし
有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)に帰命(きみょう)せよ
(註釈版聖典557頁)

とあります。
親鸞聖人は、阿弥陀さまのお慈悲を、よく光にたとえられました。
ご和讃では、だれもかれもその光に照らされていますよ、気付きなさいよ、とおっしゃっています。

普段、私たちは、何気なく日常生活を営んでいますが、実は一寸先もわからない闇の中で日暮らししているようなものです。
何も起こらないのが当たり前と思い、いざ思いもかけない障害に突き当たると、すぐに絶望という暗闇の淵に落ちてしまうのです。
そうなって初めて、あわてふためくんですね。
自分でなんとかしようともがき、頼りにならないモノにすがる。
ますます苦悩の闇に落ちていきます。
そんな無力な私たちを見通し、あわれみの手をさしのべて下さるのが阿弥陀さまという仏さまです。
私たちは常に、阿弥陀さまのお慈悲の光の中に優しく包まれ、日暮らしをさせていただいているのです。
そこに気付かされたなら、暗闇にあっても道を見失うことはありません。

ところが、日々何事なく生活に流されておりますと、阿弥陀さまに感謝するどころか、ともすれば、ご仏前から背を向けていることもしばしばです。
そのような私たちにとって、仏事を、何か特別な時にだけに行う儀式、にしてしまってはいかがなものでしょうか。
亡き人をご縁とさせていただくことはもちろん、うれしい時も、どんな時でもご仏前にご報告し、阿弥陀さまのお徳を讃えるとともに、常にみ光に照らされている我が身を振り返る機縁とさせていただく。
これを心得、人生のあらゆる場面でおつとめさせていただきたいものです。

何時も手を合わせ
もうずいぶん前に亡くなられましたが、実家の近所に、篤信家のおばあさんが住んでいました。
ある時、その人の義娘(むすめ)さんが大病で入院しましたが、なんとか手術も成功し、めでたく退院の日を迎えました。
義娘さんがやれやれと思って家に入り、ふとお仏壇を見ると、扉が開けられ、ご法事なみにきちんと荘厳されて、お灯明がついていたそうです。
それを見た義娘さんは「エンギでもない! 義母(はは)は、私が亡くなるとでも思っていたのか」とたいそう立腹したといいます。
後年、おばあさんが亡くなられ、その義娘さんも、お寺などでご法話を聴聞するようになりました。
やがて「そうか。
あれは、何時も、お仏壇に手を合わせ、お念仏していたおばあさんの、精いっぱいの喜びの表現だったのだ」と気付いた、という話です。

時は経ましたが、すばらしいご縁になったようですね。
前出の学生さんたちもかくあれかしと願います。

ちなみに、今年の龍谷大学降誕会・提灯行列は五月十五日。
私事ですが実家の永代経と同じ日です。
提灯の光には今年も縁がないようで(笑)。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/