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仏光のもとにわれかしこしの 慢心が砕かれ卑屈の心も洗われる

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人間は物事を判断する場合、理性的に、かつ客観的であるように見えて、じつのところきわめて主観的で自分勝手な「善(よ)し悪(あ)し」や「是非(ぜひ)」によることが多いようです。感情が高ぶればなおさらのことで、理性や世の常識・知識も一挙にはたらきをなさなくなり、とんでもない言動(げんどう)を引き起こしてしまう、まことに危険な存在です。

 ときには、後で冷静になってみて「やはり私の方が悪かった、間違っていた」などと反省したりもしますが、その場合でも、やはり自分の非を素直に認めたくないこころがどこかに居座(いすわ)っていて、「何も自分だけが悪いんじゃない。やはり相手も頑(かたく)なだ」などと我が身をかばいたい気持ちがわいてきます。まさに「この自分こそが一番可愛い」という思いを捨てきれない、それが悲しい凡夫(ぼんぶ)のすがたです。

 私自身、「他人はあてにならない、世間にはまことがない」などと口でいいながら、実際そのあてにならないはずの他人や世間の評価が気になって、その評価に一喜一憂(いっきいちゆう)し、うぬぼれたり落ち込んだりしてしまっているのですから、何とも情けないというほかありません。今月の言葉に出てくる「われかしこしの慢心(まんしん)」と「卑屈(ひくつ)の心」は、表裏一体(ひょうりいったい)をなして私たちを迷わせていく心であるようです。

 親鸞聖人は、人間が持つ理性や常識に確かな基準を置かれることはありませんでした。 『歎異抄(たんにしょう)』には「善悪(ぜんあく)のふたつ、総(そう)じてもつて存知(ぞんじ)せざるなり」(註釈版聖典853頁)とあり、「是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり」(註釈版聖典622頁)とご自身を悲しまれているご和讃(わさん)もあります。聖人の基準は、あくまでもそれが真実であるといえるのかどうか、つまり「如来のおこころにかなっているか、いないか」というところにあったのであり、「善と悪」「是(ぜ)と非(ひ)」という人間の判断によられたものではなかったといえましょう。

 花田正夫(はなだまさお)先生は、「私は真言宗(しんごんしゅう)の在家(ざいけ)に生まれて、念仏を聞いても有(あ)り難(がた)いとも何とも感じませんでした。そうした私に沢山(たくさん)の方々が入れ替わり立ち替わり念仏の尊さを聞かしてくださったのであります。そのお陰(かげ)で猫に小判の愚(おろ)か者に念仏のありがたさを知らせて下さるのであります」(『生死巌頭を照らす光』樹心社刊による)と述べられています。とくに池山栄吉(いけやまえいきち)先生に対しては、仏光(ぶっこう)となって自分の前に現れ、如来の存在を疑うことのできない事実として出会わせてくださった善知識(ぜんぢしき)として、深い感銘をもって讃(たた)えておられます。

 「猫に小判の愚か者」とはいったい誰のことなのか。自らを善とし、是として、仏さまのご恩と愚かな我が身のすがたを忘却(ぼうきゃく)している私自身の日常が照らし出されます。


貴島 信行(きしま しんぎょう) 1951年、大阪生まれ 真行寺住職・龍谷大学講師・中央仏教学院講師・本願寺派布教使



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。