仏の願いは そのまま 私の願いは わがまま
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阿弥陀仏の願いは、阿弥陀仏の心より起こります。阿弥陀仏のお心について、お釈迦様は、イダイケ(韋提希)に次のように仰せになります。
その仏の心は大いなる慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべての人々を摂め取られるのである。 『浄土三部経(現代語版)』184ページ
最近は慈悲という言葉を聞く機会が少なくなりました。替わって、同情とか愛情とか人情という、昔風に言えば「情け」ですが、それらが多く使われます。しかし、情と慈悲とは全く別のものです。情は人間が他人に対する心から起きてくるものです。ですから、自分が他人に対して何も感じなければ起きてこないのです。ところが、慈悲は自分と他人とを区別する心から起こるものではありません。親鸞聖人の『教行信証』には、次のように記されています。
法蔵菩薩のおこされた願心も平等である。願心が平等であるから、さとりの智慧も平等である。智慧が平等であるから、大慈悲も平等である。 『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』423ページ
阿弥陀仏(法蔵菩薩)の願いは私と他人という区別、差別のない平等な心から起きています。その心のことを慈悲の心というのです。阿弥陀仏は感情のままに生きている私たちに同じ平等な悟りを得させようとされるのです。ですから、無理を申されません。南無阿弥陀仏のお救いに、欲や怒りを持ったそのままの心でおまかせをすれば、必ず浄土で悟りを得させてくださるのです。
思えば、私の願いとはなんとわがままなものでしょうか。自分にとって都合のよいことだけを願うのです。他人にとってどれほど有益なことでも、自分にとって都合が悪ければ無視をし、時には妨害をしてしまいます。同情、愛情、人情と言ってみても私の都合で起こしているのにすぎません。そして、そのことを知らせていただけたのは、阿弥陀仏が私に、同じ悟りを開かなければ、決して自分は悟りを開かないと願いを立てられ、南無阿弥陀仏の名号を施されたからでありました。
北塔 光昇(きたづか みつのり)
1949年、北海道生まれ。
本願寺派司教、旭川大学非常勤講師、北海道旭川市正光寺住職。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。