仏のみ手に包まれて みんなの法話
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仏のみ手に包まれて
本願寺新報2000(平成12)年9月10日号掲載
岩田 アサオ(いわた あさお)(元仏教婦人会総連盟講師)
仏法を聞くために
え.秋元 裕美子
私の生家では毎朝夕、家族そろって、お手伝いの人も一緒に仏前にお礼をすることになっていました。
家では仏前にお参りすることを「お礼」と言っていました。
それをサボったりすると、父に「お礼をせぬ者はご飯は食べられぬ」と叱られるので、よく一人遅れてお礼をしたものです。
「人間は仏法を聞くために生まれてきたのだ」というのが父の持論でした。
私も家庭を持ちますと、気づかぬままに、そうした生家の「仕来(しきた)り」をしておりました。
ある朝、小学校五年生の娘とお礼をしておりますと、突然娘がご本尊を指さして、「お母さん、この仏さまは本当に私をたすけて下さる仏さまなの」と言いました。
「そうよ」と言いますと、重ねて「本当に私をたすけて下さる仏さまなんだね」と念を押します。
「そう」とはっきり答えました。
すると娘は「それなら、もしうちの家が火事になったら、この仏さまが仏壇から出てきて、『清子、火事だよ早く逃げないと大変だ』と言って私を負ぶって逃げて下さるの。
そんなことはないでしょう。
私が出してあげなければ、この仏さまは焼けて炭になるわ。
それでも仏さまかね」と私に詰問するのです。
真実あらわすてだて
私は「いい質問をするね。
本気で拝めば、それは当然の質問よ。
あんたも理解できる年頃になったから、今日はご本尊についてお話をしようね」と言って話し始めました。
仏像もいろいろあるけれども、みな仏さまのおはたらきや内容をあらわしたもの。
仏さまは色も形もない大宇宙の真実だから私たちには想像も何もできないから「不可思議光仏」といわれるの。
真実とはすべてを真実にしなければ真実とは言えないでしょう。
仏さまはすべてのものを仏(真実)にしなければ仏さまとはいえません。
だから仏さまを私たちに知らせるためには、形や言葉で知らせるより外に方法がないでしょう。
火の中に鬼のような厳しい姿で立っている不動さまは、凡夫を救うためには一歩も退かないという仏さまの意思力があらわされ、座っておられる仏さまはここが仏の座だよ、ここまで来いと仏の座を示しておられるの。
でも仏さまがいくら座を示されても、私たちはとても行けません。
家の仏さまは阿弥陀仏という仏さまで、立っておられるの。
どんなに仏の座を示しても私らは行けないから、阿弥陀仏は心配で座っておられないの。
日が暮れてもあんたが遊びほうけて帰らねば、お母さんは心配で座っていられないのと同じこと。
右のお手を上げておられるのは召喚のみ手といわれ、私たちに呼びかけていて下さるお姿。
清子、けんかをしてはだめよ。
こちらに向きなさい。
清子そこで泣いていないでこちらにおいで、私が護っているよ、といつもいつもよびかけていて下さるの。
左のお手は摂取のみ手といわれ、私をいつも抱いていて下さるお手。
清子が笑っているときも、泣いているときも、眠っているときも、仏さまのことなど忘れているときも、じっと抱いて見ていて下さるお手なの。
目に見えない阿弥陀さまのお心やはたらきを形にあらわしたのがご絵像で、言葉であらわしたのが南無阿弥陀仏。
右のお手が南無で左のお手が阿弥陀仏だから、ご絵像も南無阿弥陀仏の名号も同じように、阿弥陀さまのことを知らせて下さる方便(ほうべん)(てだて)なのだから、焼けても炭になっても心配いらないの。
朝夕、南無阿弥陀仏と称えて、このみ姿を通して阿弥陀さまにお会いしてお礼をするの、わかった。
すべての命摂め取る
このように話し終えると、「毎日意味もわからず拝んでいたけど、そういうことか、わかった」といって、それからは自ら進んでお礼をするようになり、郷里を離れて大学に行くときも仏壇を持参しました。
娘の宿舎を訪ねたとき、小さな仏壇の前に大きなパンが供えてあり、「毎日お礼をしているのね」と言いました。
この娘が中学生の頃、私は世界仏教婦人会のニューヨーク大会に行くことになり、その頃は海外に行くということは珍しく、出発前夜、遺書めいたものを書きました。
子どもにも「お母さんは元気で帰るつもりだが、人間はどんなことが起こるかわからないので、もしもお母さんが帰らないようなことがあれば...」と言うと、娘は私の言葉を取って、「お母さんは米国へ死にに行くつもりですか。
お母さんが元気に帰ってきても私が死んでいるかもしれないのよ。
諸行無常ということを忘れたのですか。
どこにいても阿弥陀さまのお手の中だと言ったのは誰」と説教されて、うれし涙をこぼしたことを思い出します。
山陰にいても京都にいてもアメリカまで行っても空気の中から出られぬように、浅ましい私のすべてを見通されて、摂取不捨と包んで下さるみ手の中に、子どもも大人も老人も、他の一切のいのちが包まれています。
そんな阿弥陀さまのみ教えに出遇(あ)い、必ず仏と成らせていただく身を生きるもったいなさと、自身の報謝の足らなさを恥じるばかりです。
取不捨のおこころをお聞かせいただいたことです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |