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今はわかる母の思い みんなの法話

提供: Book


今はわかる母の思い
本願寺新報 2009(平成21)年1月20日号掲載
田村 正教(たむら しょうきょう)(香川・和光保育園園長)
どんぐりはどこへ?

お寺の保育園である時、3歳になる男の子が、コップに一杯のドングリを持って私の前にやって来ました。
そしてニコッと笑ったかと思うと、コップをひっくり返してドングリを辺りに散らばらしました。
そしてまたドングリを拾ってコップに詰め始めたので、私も一緒に拾って、ようやく元のようにコップ一杯になりました。
するとすかさず男の子はまたさっきと同じようにコップを逆さまにしました。

あっけにとられていると、男の子は私には頓着せず、声をあげて喜び、その遊びを何度も繰り返しました。
私も元に戻してはすぐにひっくり返される、この遊びに付き合っていると突然、男の子が「ドングリさんが無い」と言い出しました。

はじめに何個ドングリが入っていたのかわからない私は、言われるままに足りないドングリを探したのですが、見当たりません。
二人でしばらく探しましたが出てこないので、私が「ドングリさん、どこかへ行ってしまったね」と言うと、男の子はうつむいた顔を勢いよく上げて「ドングリさんお家に帰ったんや」と応(こた)えたのです。

私はこの言葉にびっくりしてその子の顔を見直しました。
そして無くなったのでもどこかへ行ったのでもなく、「家に帰った」と受け止められる豊かな心と、そう言わせた男の子の温かい家庭を感じました。
と同時に私たち一人一人が抱える愛別離苦(あいべつりく 愛しい者と必ず別れなければならない苦しみ)の現実があらためて思われたことです。

時空を超えて至り届く
浄土真宗のみ教えに出遇(あ)った人は、阿弥陀さまの願いを信じお念仏申しながら、この愛別離苦の悲しみと向き合ってきました。
そして自らの人生の終焉(しゅうえん)を、仏としてのはじまりであるという豊かな世界を恵まれてきました。
このみ教えによって、悲しみの真っただ中に一筋の光を見出し、苦悩の現実を歩む支えとされた方が大勢おられます。
このような方々によってお念仏はこの私に届けられました。

満中陰(まんちゅういん 四十九日)の法事の席で、ある男性がこんな話を聞かせてくれました。

「父親を亡くした時に母親が毎日お仏壇の前で『南無阿弥陀仏』と手を合わせ、お正信偈のおつとめをしていました。
私はその後ろを何度も歩きましたが、一緒に手を合わせたり座ったりすることはありませんでした。
おつとめしている気持ちや意味がわからなかったんです。
そんな事をして何になるんだろうという気持ちが強かったように思います。
だけどその母親をこうして亡くしてみると、今度は私が毎日お仏壇の前で『南無阿弥陀仏』と手を合わせ、お正信偈のおつとめをさせてもらっています」

淡々と語られるその言葉一つ一つに私が聞き入っていると、しばらく間を置いてその男性はポソッと「あの時の母の気持ちが今はわかるような気がします」と言われました。

この方のお話を聞かせていただき、目の前に居て直に声を聞いている時はわからなかったことが、時間や場所を隔ててより深く味わえることがあるのだと教えられました。
また視点を移すと、この方のご両親をはじめ連綿とつながる方々がはたらきとなって、時と場所を超えて至り届いたとも言えます。
さらには今現在も、この方や話を聞かせていただいた私をも育(はぐく)み続けられていると味わうことができると思います。

先人に訪ね 導かれる
親鸞聖人は「前(さき)に生まれる者は後を導き、後に生まれる者は、前を訪(とぶら)い」と示されています。
「導き」という言葉には本当に相続したい大切な事と共に、生と死を包み込む大いなるはたらきを思います。
「訪い」という言葉には先人に訪ね続ける営みとともに、気付かされるとその行為すら「導き」によって育てられた私が示されているように思います。
こういただきますと、お念仏申す日暮らしは、目を覚ませば大きな背に負ぶわれての帰り道であった幼い日の私の姿に似ている気がします。

現在この方は「お正信偈さんのおつとめがいつまで続くかわかりません」と恥ずかしそうにしながら、熱心にお聴聞されています。
私はこの方とお念仏申しながら、大いなるものに育まれ抱かれている安心を感じています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/