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今だからこそ「信心」 みんなの法話

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今だからこそ「信心」
本願寺新報2007(平成19)年11月20日号掲載
布教使 門中 浄光(たにがわ こうけん)
仏教なしで生活できる

乱れ、濁り、腐敗していく現代社会。
この煩悩罪濁(ざいじょく)の現実の中にあって今、何が問われているのでしょう。

仏教壮年会の研修会に、ご門徒と一緒に参加した時のことです。

「お話はとてもよかった。
お浄土のことも教えていただいたが、私の日常生活には関係ない。
お坊さんの話はもっともなのだが、なくても生きていけますよ」と話されました。

本音でしょう。
しかし、本音と建て前を使い分けていて、門徒の名乗りを上げられるでしょうか。
真実の仏の願いに目覚め、意識の変革があってこそ、胸を張って門徒の名乗りができるのだと思います。

今日まで、数多くのお念仏をよろこぶお同行(どうぎょう)に支えられてきたご法座も、昔のようには参る人が多くありません。
危機感を持ってこの現状を打破するには、僧侶・門徒を問わず、真実信心に突き動かされて生きる、その姿勢が欠けてはならないでしょう。

真実信心こそ、浄土真宗の救いです。
そのみ教えは、煩悩を抱え持った人間が阿弥陀仏の真(まこと)の心をいただき、仏の道を歩むお救いです。
これを「獲信(ぎゃくしん)」とも「信心獲得(ぎゃくとく)」ともいいます。

「真実信心をうるとき摂取不捨(せっしゅふしゃ)にあづかるとおもへば、かならずかならず如来の誓願に住すと、悲願に見えたり」(註釈版聖典797ページ)と親鸞聖人は示されます。

月は見る者の心に宿る
阿弥陀仏は、私たちを救い取ろうと誓願をおこし、今、現に光明となって照らし、名号となって喚(よ)びつづけ、すべての人々を等しく救われていくのです。

私たち門徒一人一人が、この阿弥陀仏の本願に目覚めるならば、ここにこそ正しく日々の生活の中で阿弥陀仏のおはたらきに幾重にも幾重にも、おそだてにあずかる生活を送ることができるのです。

しかし現代は、この信心から導かれる人生の持つ深い意味が欠落しています。
仏教的価値観が損なわれているのです。
私たちの現実はまるでブラックホール。
真実でない執着の心、嘘いつわりにしがみつき、私利私欲にかられ、苦悩の原因を人に転嫁(てんか)し、自分のいのちも他人のいのちも踏みにじって生きています。
互いが互いに首を締めつけあうまさに地獄の世界です。

お同行からこんな言葉を聞きました。

「月見る者の目には月は映りけり 月を拝む者の心には月は宿れり」

月を見ようともしない者には、月はないに等しいのです。
み教えにであうことの大切さ、信心を得ることの尊さを思います。

ご和讚に「無礙光仏(むげこうぶつ)のひかりには 無数の阿弥陀ましまして 化仏(けぶつ)おのおのことごとく 真実信心をまもるなり」(同576ページ)とあります。

私たちは阿弥陀仏のお姿を直接拝見することはできませんが、そのはたらきを感じよろこぶことはできます。
それを明らかにしてくださったのが親鸞聖人です。

苦悩の民衆と共に歩む
聖人は時の権力に屈することなく、一心に阿弥陀仏のみこころをいのちの羅針盤とし、大いなる願いに生きられました。
学問にたけ、経典のこころを深く読みとられ、一生涯をついやし、『教行信証』にまとめあげられました。
そのご苦労は一口に一生涯と書きましたが、自分の命そのものをささえている信心の真実性を明らかにせずにはいられない、それだけに一生涯、墨を引いて消しては書き、墨を引いて消しては書きのご一生でした。

自ら肉食妻帯(にくじきさいたい)し、苦悩の人々と共に乱世を生きぬかれ、人間として生きる苦しみ、悲しみ、また慈しみやよろこびを体感され、日々の生活の中で阿弥陀仏のおはたらきを感じて過ごされたことでしょう。

親鸞聖人は、阿弥陀仏から賜(たまわ)る真心(まごころ)、真実信心一つが、仏と成らせていただく正因(しょういん)であると説かれました。
その信心は、私たちのいたみ、苦しみ、叫びに耳を、心を傾ける真心でもあります。

親鸞聖人の歩まれた道は、自らも救われ、今までも数多くの人々が救われ、そしてこれからも数しれぬ人々が救われていく道です。
日々の生活の中で阿弥陀仏の本願のおはたらきを感じるとき、聖人のおよろこびになられた信心の深きことがいよいよしのばれます。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/