操作

今ここに時空を超えてく みんなの法話

提供: Book


今ここに時空を超えてく
本願寺新報2007(平成19)年11月1日号掲載
布教使 結城 道哉(ゆうき みちや)
しのばれる亡き父の姿

今年二月十九日、実父・田中英世が命終(みょうじゅう)した。
若き時より布教使として各地に出向していた父は、母と岐阜の農村地域にある寺で五人の息子を僧侶に育て、四人をそれぞれお寺へ養子に出した。

平成十年、蓮如上人五百回遠忌法要では、結婚五十年になる方々が全国から本山に集う行事があったが、父はくしくも参加者代表として、不自由な手足であったが、母とともに尊前に進んだ。
本山から出版された法要記念誌のそのページは、私の記憶に焼き付いたものと同じである。

私は五人兄弟の五番目、末っ子である。
私のひとり息子も二十歳となって僧侶となった。
喜んでくれるはずの母も八年前、突然にしてあっけなく、病身の老いた父をのこして逝(い)った。

父は六十代のなかばで脳こうそくを患ったが、病床から抜け出ては、自由のきかぬ身体であっても、母の手を借りながら布教を続けていた。
しかし、寺の跡を任すはずの長男が事故で急逝。
幼年の孫をいくら気遣っても、わが子のようにはいかないことも自身は承知していた。
加えて母の亡き後の七年間は、いよいよ落胆の姿は明らかで、強気に振る舞うことでも隠せなかった。

老いも病も念仏の中に
「それ、秋も去り春も去りて、年月(としつき)を送ること、昨日も過ぎ今日も過(す)ぐ。
いつのまにかは年老(ねんろう)のつもるらんともおぼえずしらざりき・・・老(おい)の白髪(しらが)となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ・・・」
(註釈版聖典・1167ページ)

御文章は、まさに父に重なるのである。
そしてこの後に続く言葉が、また父の姿に重なった。

「本願をただ一念無疑(むぎ)に至心帰命(ししんきみょう)したてまつれば」―今日、命終わってもいい、まして命長らえたなら、一生の間、仏恩報謝のために念仏して「畢命(ひつみょう)を期(ご)とすべし」(命終の時、直ちにさとりの浄土(せかい)に生まれる)と示してくださっている。

老いの姿、病身の姿は決して滅びの姿を露呈しているのではない。
死さえ滅びとしない、滅びには向かわせないと教えてくださっている。

自分の意志にかなわぬ手足を見つめる父の目は、それを透かして法語のなかに時を過ごしているかのようだった。
静かにお念仏のなかにいるような時間が過ぎた。
そばにいる時、過ぎ去った時を繰り言として懐かしむ姿も、老いも、病の身も・・・私にはその姿が尊く得難いことと受けとめることができた。

突然すぎた最後の言葉
酸素マスクのせいか、ほとんど無口になったある日、少し身体を起こして書くものをくれとそぶりで言う。
何か欲しいものでもあるのかと思いつつ、筆ペンと紙をわたした。

「お父さん、今日は大事な検査があって別の病棟に行くから、欲しいものはこの部屋に戻ってからだよ」

私が他事をしながら何が欲しいのかとのぞき込むと、書いた上に一文字ずつ何度もなぞる。
余計に読みづらい。

五つの文字の平仮名のようだが、初めの文字さえ「あ」か「お」かわからない。
どうしても読めず、「これは何と書いたの?」「あ、なの?」と聞くと、筆を置いて右手で親指と人差し指で丸をつくり、「OK」のしぐさで返事をしてくれた。

次の文字を見るがわからない。
欲しいものがわからない。
勘を働かせてもわからない。

「い、なの? り、なの?」

「り」で返事をくれた。

「あ・り・が・と・う」

え、そんな。

幾度か聞き直しても「OK」のしぐさを繰り返すばかりだった。

聞き終えた途端、そんな、ちょっと待って、映画か小説なら前振りの受けとめる用意があって・・・。
突然すぎる。

その二日後、息を引き取った。

それから葬儀が過ぎるまで、「ありがとう」と書いている父の姿を思い出していた。
私に遺(のこ)した言葉ではないはずだ。
生涯の最後に遺した言葉であった。
「畢命を期とする」言葉であった。

父がお浄土に在(あ)り、母も長兄も次兄も。

お念仏申す。

私は今ここに在り、時空を超えて遠くに向かい、父母たちもまた、時空を超えてここに来る。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/