人間に生まれたのは如来の本願を聞くためである
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人は誰でも、自分はどの国のどの地方に生まれようかと計画や計算をしてから生まれてきたのではないでしょう。正直に言って、考えたときは生まれていたという事実だけはまぎれもなくあったということになります。
あるヨーロッパの方は、人間がこの世に生まれた状態は泳ぎも知らない生きものが大海の中に放り出されたようなものだ、と言われたそうです。
たしかに、人は初めから、世渡りの技術や能力を身につけて生まれてきたのではないでしょう。まさに、大海の中に放り出されたというのでほんとうでしょう。
ですから、人は何のために生れたかを答えてみよ、と言われても、はじめから答えを知っているはずがないのです。
そうかといって、ただ、大きな家を建て、よい学校を出て、出世して、えらくなるために生れてきた、というようなことは、すべての人に通ずる、ゆるがない意味のある答えとも思われない。
そうこうしているうちに、そんなことなど考えている暇もなければ、たとえ考えても、どうせ答えはでてこないということになるでしょう。
それでは絶望なのでしょうか。実は、そこに道がひらかれているのです。それは、仏さまがこの世に生まれたもうたのは何のためであるか、つまり仏の出世本懐(しゅっせほんがい)を聞かせていただく道でありました。つまり、み仏のこの世に生まれられた本音を聞かせていただくことによって、私のこの世に生まれさせていただいた意味、目的を知らせていただくという仕組みであります。つまり仏の出世本懐を聞かせていただくそのままが私がこの世に生まれさせていただいた、意味、目的を知らせていただくという道なのでありました。
それではみ仏は何のために生れたもうたのかを尋ねてみますと、それは生きることも死ぬことも包みきって、解決できる「まこと」「真実之利」を恵むためであると説かれているのです。
み仏が「まこと」ひとつを恵むために生まれたもうたということは、この私は、その「まこと」をうけとるための人生でありますと、うなずくことであります。
あるお同行の体験談に「この人生、いろいろ遠回りしていろいろな苦しみもよろこびもありましたが、今、あなたは何のために生まれてきたのかと尋ねられたら、生きることも死ぬこともまかせきることのできる阿弥陀如来の本願を聞くためでありましたと答えられる人間にさせていただきました」という言葉がありました。ありがたいことであります。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。