人生は 聴聞を続けることで 広く深くなる
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アジャセ(阿闍世)王は、父王を殺害した罪の報いを恐れて苦しみ抜いていました。しかし、お釈迦様より南無阿弥陀仏の教えを聞き、他力の信心をいただきました。そこで、今までの世界が一変したのです。アジャセは次のように申します。
如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。よく知るがよい。あらゆる人々はみな如来の子なのである。 『顕浄土真実教行証文類(現代語訳版)』298~299ページ
聴聞をするまでのアジャセにとって、自分以外の人々はどのように見えていたのでしょうか。おそらくは、虫けら同然であったことでありましょう。そのような世界の中では、大変な孤独感が彼を襲ったことでありましょう。暗い狭い世界の中で孤独な人生を送っていたと思われます。それが、自分を含めてすべてが仏の子であると知ったのです。暗闇の中から光の中へと、彼の世界が大転換をしたのです。続けてアジャセが申します。
わたしはかつて悪知識に遇い、過去・現在・未来にわたる罪をつくった。今仏の前にこれを懺悔する。願わくはふたたびこのような罪をつくるまい。願わくはあらゆる人々が菩提心をおこし、すべての世界の仏がたを心にかけて常に念じてほしいと思う。 『顕浄土真実教行証文類(現代語訳版)』299ページ
近年、日本では多くの人々が様々な苦しみを抱えて自ら命を落としています。その中でもインターネットで知り合った人々が集団で一度に命を失うという事件が起きています。苦しみからの解放とともに孤独からの解放を目指してのことでしょうか。
もしも、それらの人々が聴聞を続けていたならば。そのようなことを考えるのは私一人でありましょうか。
なお、他力念仏の教えがわかったら聴聞はしなくてもよいのではないかと思う人が時々いるようです。聴聞とはそのようなものでしょうか。それならば、他力の信心をいただけたら仏になったということなのでしょうか。そのようなことはありません。私たち凡夫は命の終わるまで欲も怒りもなくなりません。信心がいただけたというのは、お浄土へ往生することがまちがいなく決まったということなのです。ですから、常に、教えを聞いて我が身の本当の姿に気づかせていただくことが大切なのです。
北塔 光昇(きたづか みつのり)
1949年、北海道生まれ。
本願寺派司教、旭川大学非常勤講師、北海道旭川市正光寺住職。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。