人生の安全運転 みんなの法話
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人生の安全運転
本願寺新報2003(平成15)年5月10日号掲載
本山・布教研究専従職 吉村 隆真(よしむら りゅうしん)
そこに人生の落とし穴が
イラク攻撃の最中、少々心が痛んだのですが、お花見の機会にめぐまれ、二十九年間の人生の中で、初めて屋形船に乗りました。
そこから愛(め)でる桜の眺めは実に美しく、ただただ見とれるだけで、とてもあの桜がいずれ散ってゆくものであるという考えなど、微塵も浮かんできませんでした。
ここに私たちの人生の落とし穴があるのかもしれません。
数年前の誕生日に、自動車の運転免許証の更新手続きのため、免許センターへ行って来ました。
安全運転の講習会の中で、交通指導員の方が、「一番事故を起こしやすいのは、何運転だと思いますか?」と質問されました。
当然のように「飲酒運転」「居眠り運転」「わき見運転」などの答えが思い浮かびました。
しかし、正解は「だろう運転」なのだそうです。
「まさかこんな所から人は飛び出してこないだろう」「ちょっとお酒を飲んでしまったけど、このくらいなら運転できるだろう」というように、「だろう、だろう」と思ってしてしまう運転が、一番危険な運転だというのです。
私にはそのことが、自分の人生にも重なって聞こえてきました。
明日もきっと大丈夫だろう
この「だろう運転」は、何も車の運転だけに限ったことではありません。
私の人生にも同じことが言えるのです。
「いつか死ななければならないけれども、まさか今日ということはないだろう」「今日まで無事だったのだから、明日もきっと大丈夫だろう」というように、何の根拠もない保証を自分のいのちに自分で付けながら、まさにこの人生を「だろう運転」で生きていた自分の姿に、改めて気付かされました。
今日という日が、無事にこのいのちあって終わるかどうか、ということよりも、明日の天気やテレビの続きの方が気になってしまうということが、「だろう運転」で生きているという最たる証拠でありましょう。
そのことに気付かない日常の中で、もし自らの死が訪れたならば、それはまさに、人生の大事故と言えます。
南無阿弥陀仏のおよび声
では反対に、一番安全な運転の方法はどのような運転なのでしょうか?
それを「だろう運転」に対して、「かもしれない運転」と言うそうです。
「車が来ているかもしれない」「人が飛び出してくるかもしれない」と、常に用心して注意深く運転するということです。
聞いてみれば、ごく当たり前のことなのですが、この「かもしれない運転」を、私たちの人生に置き換えてみると、とても容易な話ではなくなってきます。
「かもしれない」で生きて行く人生は安心ができません。
「今日死ぬかもしれない...、明日死ぬかもしれない...」と、びくびく、おどおどしながら生きていかざるをえない思いがしてきます。
それは先行きの見えない大変不安な人生となるでしょう。
まさに、阿弥陀さまが見抜いてくださったのは、そこだったのです。
本来、いつ終わるかもしれないと、びくびく、おどおどしながら生きていくしかなかった私のいのちを、阿弥陀さまはしっかりと抱きとめた上で、「あなたが、いつ・どこで・どのようなかたちでいのち尽きたとしても、そのいのちすでに私が引き受けてあるのですよ。
だからあなたは安心して、せっかくいただいているいのちを、いま・ここで、精いっぱい輝かせて生き抜きなさい。
そして、やがてそのいのち尽きたならば、わたしと共に真実のさとりの世界へかえろう」と、常によび続けておられるのです。
そのよび声こそが、「南無阿弥陀仏」として、いま、この私に、至り届いているのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |