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人の悪はとがめるが 自分の悪には 気がつかない

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人間は皆、こういう姿勢でいるのですね。蓮(れん)如(にょ)上(しょう)人(にん)も『御(ご)一(いち)代(だい)記(き)聞(きき)書(がき)』第五十八条に「たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。これ、しかしながら、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。これによりて、一人ずつも心(しん)中(じゅう)をひるがえさずは、ながき世、泥(ない)梨(り)にふかくしずむべきものなり。これというも、なにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆえなり」(『真宗聖典』866頁)と、明らかに教えてくださってあります。人間というものは、自分の悪いところが見えないものです。このような在り方になるのは親(しん)鸞(らん)聖(しょう)人(にん)の教えを身で聞いていないからではないでしょうか。だから一人ひとりが本当に、自分自身に気づかしてもらう教えに遇わないと、永い人生が、休みなき苦しみになるのです。本当に真実の仏法に遇うてください、と訓(さと)してくださってあります。また清(きよ)沢(ざわ)満(まん)之(し)先生の「法味寸言」(永田文昌堂刊『清沢満之先生のことば』大河内了悟・佐々木蓮麿共著)に「他を咎(とが)めんとする心を咎(とが)めよ」と言われています。

 法語には゛自分の悪には気がつかない゛と、自分に気づいていてくださることが、尊い一言といただきます。

 この自分に気づく、ということが浄土真宗の大事な智慧であると学ばしていただいています。この自分に気づいて確かな人生であられたお一人に上(じょう)代(だい)絲(いと)子(こ)さんという方がおいでになったことを、かつて米沢英雄先生のお話でお聞きしたことがあります。この上代さんに『石の花』という歌集があります(愛知県安城市和泉町・本龍寺刊)。この中に大変尊い短歌がのっていますので紹介します。

 「一口の水を薬となして飲み天に謝すなり病みていねつつ」

 「目を伏せて子の云ふを聴く至言なり母なる文字にあたひせぬ我れ」

 上代さんは三十五歳の頃に陸軍予備役の中佐だったY氏の後妻に入りました。そのY氏に先妻の子どもが三人ということでしたが、嫁(か)してみたら、まだあと二人、結(けっ)核(かく)で入院中の子どもがいたけど、昔の生(き)真(ま)面(じ)目(め)な心でそのまま生活していましたが、入院中の二人と夫が先の戦争中に亡くなり、残った三人の子どもを養うために、敗戦後の生活のむずかしい中、日雇いの道路工夫になりました。上代さんは結婚前に与(よ)謝(さ)野(の)鉄(てっ)幹(かん)・晶(あき)子(こ)夫妻の短歌の指導を受けていたうえに、若い時に祖父に養われた仏法の心を失わずに持っておられたので、自己省(せい)察(さつ)の厳しさがありました。

 前記第一首目の歌は、子どもにわからないようにと、水薬の瓶に水を入れて、医者からもらってきたようにみせたが、すぐ子等にわかって、貧乏人、甲斐性なしとののしられるが、次のお歌のように「子の云うを聴く至言なり」子ども等が自分をひどく軽(けい)蔑(べつ)して言うのは間違いない。私は本当に母の資格はありませんでした、と。この自己擬(ぎょう)視(し)の深さは仏法の信の誠の姿であると合掌申しています。

 自分のことは覆いかくしている、この自分が明らかに見える目が仏法と、いただいています。


野田風雪 1921年生まれ。滋賀県在住。 元仏教談話会主宰。



東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。