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亡き人の本当の願いとは みんなの法話

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亡き人の本当の願いとは
本願寺新報2004(平成16)年9月20日号掲載
大分・西福寺住職 臼杵 義宣(うすき ぎせん)
好き嫌いはありません

住職だった父が突然先立ってから、はや四年半が経ちました。

その当時は、父が生前にお約束していた布教の会所に、私が代わりにお訪ねすることがありました。
最初はとても緊張しましたが、布教にうかがった先では、皆さまからいろいろなお心遣いをいただきました。

特に坊守さんが気にかけて下さるのが、食事のことです。
何か食べられないものはないかとお聞きになるのですが、そのような時は「好き嫌いはありません」と胸を張って答えてきました。

実は私の妻は、エビ・カニ類が食べられません。
新婚旅行の時にわかったのですが、何でも小さい頃にあたったことがあるからだそうです。

現代では多かれ少なかれ、何か口にできないものの一つや二つがあっても不思議ではありません。
そんな中で、たまたま私には好き嫌いがないと言っていますが、自分でそのようになったのではありません。

では誰がそのようにしてきたのかといえば、私の場合は母親です。
現在は介護施設に入所している母ですが、私が生まれてからずっと、私の食事を作り続けてきました。
それは家族の健康や安全な食生活を願いながらの行いであったことでしょう。

食品にあたらないようにするのはもちろんのこと、好き嫌いがないよう、何でもおいしく食べられるようにと、細心の注意を払って食事を作ってくれたことでしょう。
そんな母の願いと行いが成就して、私に好き嫌いがない、という結果が生まれたのです。

人間の願いと仏の願い
私にも子どもがいます。
子どもの前では父親としての私です。
わが子に対して親として願うことも多々あります。
世間の親であれば、大概の人は、せめて子どもには自分より先まで生き抜いてくれることを願うのではないでしょうか。
ただ、たったそれだけの願いでも、世の中では通じないこともあるのだと知らされます。
人の命はわからないのだということです。

『仏説無量寿経』というお経の中で、阿弥陀さまは「十方衆生」とよびかけておられます。
それは仏さまの願いですが、すべてのものへということであり、「たった一人でも欠けることがあったならば、この願いを無効にします」ということです。

そして出来上がったものが何かといえば「南無阿弥陀仏」の親さまの名のりです。
すべてのいのちあるものを、たった一人でも欠けることなく、さとりの世界であるお浄土へ救い取るという願いを起こされて、それが実現するよう計り知れない長い時間修行を続けられ、成就されたのです。

今は亡き父も、後に残した子どもに対して何らかの願いを持っていたと思います。
どのような願いを親が抱えていたのでしょうか。
自分よりも先まで生き抜いてほしいとも思っていたかもしれません。
でも、それは叶わないこともあり得ると、父は知っていたはずです。
であれば、どのような願いが考えられるでしょう。

亡き人偲ぶお彼岸に・・・
母親の願いのところで、私の将来を思っていることを書きました。
子どもの行く末を案じて、その役目を全うし、命を精いっぱい生き抜いてほしいと親は願っています。
私の母は今も元気にしていますから、私と話すこともできますが、父はすでに仏国土に往(い)っています。
どんなにか言葉を掛けたいだろう、とも思いますが、父と直接話すことはできないのです。
ただ、仏さまの側からつくってくださった、ご自身の名のりである「南無阿弥陀仏」のお念仏によってのみ、父の本当の思いを受け取ることができるのです。

秋のお彼岸を迎えました。
あらためて、今は亡き人を偲ぶ機会をいただきます。
先立たれた方と、直接には話をすることができない私ですが、お念仏を通して、その方たちの本当の願いを受け取っていける貴重なご縁とさせていただきたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/