操作

丸坊主 みんなの法話

提供: Book


丸坊主
本願寺新報2006(平成18)年5月10日号掲載
布教使 山本 耕嗣(やまもと こうじ)
大瀛和上の足跡たどる

「極楽の道はひとすじ南無阿弥陀仏 思案工夫のわき道をすな」

これは、今から二百年前に本願寺で起きた宗義論争「三業惑乱(さんごうわくらん)」に命がけで活躍された大瀛和上(だいえいわじょう)の歌です。

「お浄土の道は阿弥陀さまのお救いにおまかせして人間の思慮分別をまじえてはならない」という意味です。

大瀛和上が四十六歳の時、最後の旅となった安芸から江戸までの九百キロ道を、私は実際に自分の足で歩きながら、なぜ自分は僧侶になったのか、僧侶として本当に人が救えるのか、という二つの問題を自分に問い続けています。

お坊さんになろう!
私が僧侶になったのは、大学卒業直前の二月でした。
龍谷大学経営学部の四年だった十月、下宿先に家から「母が自殺した」という電話がかかりました。
急いで帰宅してみると、ぐったりと寝ている母の姿がありました。
薬を大量に飲んでの自殺未遂だったと妹が教えてくれました。

「何でこんなことをしたんか、バカが!」と怒鳴りつけました。
母は何も言いませんでした。
私は悔しかった。
母の弱い生き方に腹が立ちました。
しかし、私は一人京都でのんきに学生をして家族や家の商売には全く無関心でした。
家を建て、子ども二人を大学にやり、家をきりもりする母にとっては、それが重圧となっていたのでしょうか。
薬を飲んで死ねば楽になると思った母の気持ちを思うにつけて、自分のふがいなさと身勝手さを痛感しました。
母をこんな目に遭わせたのは自分に違いない、たとえ遠くにいても母を気遣うことはできたのにと、はじめて気付きました。
その時、私の頭に「一人出家すれば九族天に生ず」という言葉がよぎりました。

「そうだ、お坊さんになろう。
大学では仏教も勉強したのだから、お坊さんになってみんなと仏道を歩めば、こんな悲しい事件はなくなるはずだ」

それから得度をして僧侶になりました。
丸坊主で家に帰った私を喜んで迎えてくれたのは、私にとってはこの世でたった一人しかいない母でした。

うちは極楽にはいけん
大学を卒業してからは家の商売を継ぎました。
仕事をしながら、いつも丸坊主で仏教を伝える生き方を選びました。
特に、家族の中に仏教が入り満ちて、みんながお念仏を喜ぶことが願いでしたが、わが家は古くから真言宗でしたから、それは簡単なことではありませんでした。

自殺未遂の後、一命を取り留めた母は、それから十三年後に肝臓がんで亡くなりました。
死を待つだけになった母が、亡くなる前に「うちは悪いことをしてきたから極楽へいけん。
あんたは念仏しているし極楽へいけるなあ」とうらやましそうに言いました。
私は何も答えませんでした。
今まで身を入れて仏教を聞いたことにない母に今さら話しても仏教は難しいからわからないだろうと勝手に思ったからです。

しかし、母の死後、「しまった!」と思いました。
それはたった一人の母に、それも自殺未遂までして私に僧侶の道を進ませた母に、最後まで仏教を私の口から話さなかったことが悔やまれてなりませんでした。
母を見殺しにしてしまったという後悔でした。
あの時、母は難しい仏教を聞きたかったのではなく、「お母さん、どんな人でも仏さまにおまかせすれば極楽へいけるから心配いらん。
すべてをおまかせしてお念仏を喜ばせてもらおうなあ」という息子のひと言を聞いて安心したかったのかもしれません。
この時、仏教は難しいことを話して有り難くさせるのではなく、有り難い仏教だから誰でもわかるように親切に話すことだと初めて知らされました。

母の死を通して、私は人間が人間を救うことはできないと知りました。
せっかく僧侶になっても、自分の母さえも救うことができなかった愚かな私でした。
だからこそ、いま私はお念仏を喜び浄土に参らせていただき仏となり、母を救わねばと思います。
いや反対に、母はお浄土から「お念仏を喜べよ」よ私を導くために、私の母となってくれたのかもしれません。

今の私には、仏教を家族に、そして一人でも多く人々に伝え共に喜ばせていただきたいと思うばかりです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/