上げっぱなしの頭 みんなの法話
提供: Book
上げっぱなしの頭
本願寺新報2007(平成19)年11月10日号掲載
兵庫・高松寺住職 谷川 弘顕(たにがわ こうけん)
頻繁に見るおわび会見
最近、頻繁にテレビで「おわび会見」を目にします。
個人から大会社まで「申し訳ありませんでした」と頭を下げている姿です。
もちろん頭を下げるそれなりの理由があるわけですが、その姿や表情から「わびる」というものが伝わってこないと感じるのは、私だけでしょうか。
理屈から言うと、悪いことをすればわびるのは当然で、しかも態度や誠意をともなってこそ伝わるものだと、誰しも思うことです。
しかし、立場を変えてみると、私たちはもともとわびることだけでなく、頭を下げることが一番嫌いなのではないでしょうか。
日常生活の中では頭を下げながら毎日を送っていますが、できることなら頭を下げたくはないのでしょう。
自分の得にならないと気付いた途端に頭を下げることをやめてしまいます。
朝な夕なに手を合わせ
そのような私たちが無条件で頭を下げるということがあるのだろうかと思った時、フト気付きました。
朝な夕なに手を合わせ頭を下げる(礼拝する)場所を家庭にもっていることです。
家庭にお仏壇があるということは、礼拝(らいはい)の場所をもっているのです。
「礼拝」ということは、なんでもないことのようですが、実はこれは大変なことだと思うのです。
たとえ社会的地位がどうであろうとも、お仏壇の前ではそんな肩書きは皆はずして頭を下げるわけですから。
お仏壇の前で頭を下げたからといって、そのことがお金儲(もう)けに直接つながることはありません。
頭を下げても一銭の得にもならない場所を家庭の真ん中に置こうということですから、ある意味不合理きわまりないことのはずです。
しかし、そうした場所が家庭から消えていく時、人間の生活意識も変わってしまうのではと危惧(ぐ)するのです。
戦後、私たちの生活様式は急速に変化してきました。
もちろん時代に応じて変わるものでしょうが、以前は時代の推移という中にあっても、決して変わらない一点があったのです。
それが今、無くなりつつあるということです。
家庭の中からお仏壇が消えていくという変わり方です。
拝む世界を失った人間
私は十三年前の阪神淡路大震災にあいました。
ご門徒の大多数が全壊・半壊の被害にあい、家を再建していく中で、お仏壇の場所がどんどん変わっていくのを目の当たりにしました。
かつてのお仏壇は家庭の一番上(かみ)の位置にありましたが、「家が狭くなり、先祖代々のお仏壇では大きすぎるので小さいものに代えました」と言われ、さらに「小さくしましたが、都合で場所を横にずらしました」「家財がいろいろ多くなりましたので、お仏壇はタンスの上へ移しました」となっていきました。
このままでは「タンスの上もいっぱいになったので、折りたたみ式の仏さんにかえました」「忙しくて拝むヒマもありません」「忙しい世の中ですから・・・」と言い訳をしながら、最終的には家の中から消えてしまうのではないでしょうか。
これは、ただ単に一つの大きな箱が家の中から無くなるということだけではないのです。
拝む世界を失った人間に、私たち自身が変わってしまったということなのです。
つまり、いつでも頭を上げっぱなしの人間になったということです。
いつでも自分を中心にしてしか生きることのできない人間になったということです。
「智(ち)に働けば角が立つ。
情に掉(さお)させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角(とかく)に人の世は住みにくい」
夏目漱石の『草枕』の文章です。
私たちの気持ちをよく言い表しています。
賢そうにふるまって、馬鹿にされたくないと突っ張って、争いをおこし、気まずい思いで世間を狭くしていたり、思わず情にほだされて自分まで傷ついたり・・・。
またつまらないことに意地をはり、間違いと気付いても、ひっこみがつかず、意地を張り通して窮屈な思いをしながら苦しんでいく。
まさに「煩悩具足の凡夫」といわれる姿そのものです。
私たちは今、無条件で頭を下げる場を家庭にもっています。
お仏壇は箱ではなく、広やかな世界を知らしめてくださる、浄土真宗に遇(あ)う、お念仏に遇う、大切な場なのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |