一 初期真宗と北陸
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浄土真宗と北陸門徒 千葉 乗隆 |
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一 初期真宗と北陸 |
二 本願寺門徒と讃門徒 |
三 蓮如上人の北陸教化 |
四 北陸門徒の組織 |
ウィキポータル 千葉乗隆 |
(1)真宗史の時代区分
今日講義いたします初期真宗と北陸というテーマの中で「(1)真宗史の時代区分」という項目を立てましたのは、私どもが過去を振り返る場合に、時代によってどういうふうな変化相違があるのかということを省みる必要があるといったところから、先ず歴史の勉強には時代区分ということが不可欠であるということを、最初にご認識をいただきたいと思います。
私どもは、例えば自分自身の過去を振り返ります場合に、幼年時代とか青年時代とか壮年時代という形で過去をかえりみます。幼年時代はこうであった、或は青年時代はこうであったというふうにですね、それぞれ句切りを付けて過去をとらえます。仏教の場合にも、正法・像法・末法という三つの時代区分を立てまして、時代が下がるにつれまして、釈尊のみ教えが変容するという時代区分が行われております。ということで、やはり真宗の歴史、本願寺の歩みを振り返ります場合にも時代区分ということが必要となります。
以前は真宗史の時代区分を致します場合には、初期真宗教団とか中期真宗教団、或は近世真宗教団といったような「初・中・後」という機械的な区分が行われていたわけです。しかし最近になりましてこうした機械的な時代区分ではなくして、教団独得の特徴ともいうべきものがございますので、そうした特徴を捉えた時代区分が、なされるようになりました。その結果、例えば初期真宗教団のところを同朋教団或は伝道教団、中期のところを教化者教団、更に近世を制度化教団、それから近代を遺制教団、というような区分が行われる傾向が段々強くなっております。
同朋教団と申しますのは親鸞聖人の御同朋御同行の精神がゆきわたっておる、生かされておるところの時代・教団という意味であります。ではそれは大体どこらあたりで線を引くかということで問題がございますが、例えば覚如上人あたりから教化者教団的な色彩を帯びてまいりますので、覚如上人くらいまでを同朋教団と呼ぶとか、いや、蓮如上人くらいまでは同朋教団と位置付けてもいいのではないかとか、色々議論がございます。しかしともかく聖人の御同朋御同行という精神というものに依り規律されている教団を、同朋教団と呼びます。
ところで、その御同朋御同行の中から僧侶と俗人が分かれて、僧侶が主導権を握った教団運営がなされる。僧侶中心に運営されますところの教団という点から、教化者教団という名称が付せられます。そこで教化者教団というのは、真宗史の歩みの中で、具体的にどこらあたりからかと申しますと、今申しましたように、学者によりまして意見が分かれます。例えば覚如上人時代からお坊さん中心の教団体制が発足したと考えますと、この時点で教化者教団というものがスタートした、という考え方が成立します。また覚如上人時代は御同朋御同行の意識が濃厚であったというふうに御理解なさいますと、それ以後に僧侶中心の教団体制というものが成立をしたということになります。
さて制度化教団というのは江戸時代に入りますと、幕府の封建体制が整備されその一環といたしまして、仏教教団も制度化されるわけです。本末制度とか触頭制度とか、或は檀家制度とか様々な制度が作られまして、それによって教団の規制がなされる。それを制度化教団といいます。江戸時代の仏教教団、これは真宗教団も含めてですが、どう理解をするのかという点で、学者の間で二つの大きな潮流があります。
一つは仏教が退廃し、例えば檀家制度によりまして生活の糧の安全が保障されまして、僧侶が次第に葬祭を中心にした行事に専心して、本来の仏教精神、浄土真宗の精神を次第に希薄化する僧侶堕落の時代だと、こういう見方があります。辻善之助先生、この方は日本仏教史の研究家としましては第一人者ですが、この辻先生などのお考えは、江戸時代は僧侶が堕落した時代だという考え方でね。
それに対しまして、江戸時代は仏教興隆の時代だとする見方があります。檀家制度というのは幕府の押しつけの制度ですが、仏教が日本全国の家々人々の間に洩れなく浸透し、み教えに接する機会がえられた。これほど仏教が日本全国民の中にいき渡った時代はない、従ってこれは仏教興隆の時代なんだと、いう考えもあります。そこで制度化教団の時代を単に仏教の堕落した時代であるという認識に立つだけではなく、積極的に評価をしていこうという考え方もあります。評価の仕方はいずれにしても、この時代を制度化教団の時代として捉える見方が大方の同意を得ています。
それから明治以降の教団を一体どう捉えるか、制度化教団の姿を残してはいるけれども、封建体制を脱却しえない教団であるという認識に立ちまして、名称付けいたしましたのが遺制教団です。これにつきましても実は反論がございまして、明治以後の日本仏教、特に浄土真宗の教団の歩みを振り返ってみますと、本末制度も崩壊し、また檀家制度も江戸時代の流れを直線的に汲むものではなく、近代化された形において門徒、檀家との関係が構築されたということで、単なる江戸時代の制度化教団をそのまま受け継いではおらない。
明治の廃仏棄釋を契機にして、近代化されたというところから、遺制教団ではなくて近代化された教団、即ち近代化教団という名称をつけ、これまた二つに評価が分かれてまいります。ただ皆様方どういうふうに、このことをお感じになりますか、これは仏教教団というものを、現代人がどの様に認識しておるかということにも関わってきます。
一昨年朝日新聞社が行いました実態調査によりますと、なんらかの形で宗教に関心を持つ人たちは60パーセント程いる。ところがそういった方々が、既成教団に所属しておるのはほんの僅かなんだ。やはり既成教団が見放されているんだというふうな調査結果が出ています。また世間の一般的な傾向、例えばお坊さんといえばすぐにお葬式とか法事、つまり葬式仏教とか、或はお寺といえば観光仏教とかいわれるように、前近代的な存在だという意識が、どうも強いのではないかという感じがします。
同朋教団・教化者教団・制度化教団・遺制教団と時代区分をいたしましたが、しかしこうした時代区分の方法につきましては色々と問題があるということは、歴史を振り返る場合に、自分自身で過去をどう捉えるかという姿勢にも、密接に関わってくるのだということを申し上げた次第でございます。
(2)宗祖と初期真宗
宗祖聖人が教団というものを一体どの様にお考えになっておられたかということでごすが、親鸞聖人は「弟子一人も持たず」とか、或は「我が弟子、人の弟子という事あるべからず」ということを仰っておられまして、いわゆる旧仏教のような階層的な教団体制というものには、否定的であったということが考えられます。念仏する者はみな仏のお弟子なんだと、弟子の間に上下の差別はないのだという御同朋・御同行の精神に貫かれましたところの、グループというものを考えられていたと推測されます。
ただ晩年になりまして、少し教団についてのお考えが変わったのではなかろうかと思われるふしがあります。それはご承知のように善鸞事件というのが発生いたしまして、親鸞聖人を大変困惑に陥れ、また東国の教団が混乱に陥るわけです。この善鸞事件を契機にいたしまして、正しい念仏者は正法を護るために団結する必要があるというような事を、親鸞聖人はお考えになったようでありまして、聖人のお手紙の中に「性信坊のかたうど(方人)にこそ、なりあわせたまうべけれ」とあります。これはご承知にように、善鸞事件のときに横曽根の性信というお方が、正しいみ教えを護るためにリーダーとして活躍をなさいます。その性信坊を助けて一致団結して行動しなさいといっておられます。正しいみ教えを護ってゆくためにはやはり念仏者は団結して、異端に対応しなくてはいけないんだと親鸞聖人は仰っておられます。そういった組織化の必要というものを、親鸞聖人はお感じになっておられたのではないかということが思われます。
そこで親鸞聖人が、お考えになっておられた教団体制というのは一体どういうものであったかと申しますと、それは恵信僧都源信が『往生要集』をお作りになられまして浄土往生の道を示されますが、その『往生要集』を著された翌年に、念仏者達が集まって組織を形成します。これを二十五三昧会、あるいは二十五三昧講と申します。
詳しく申しますと横川首楞厳院二十五三昧会という念仏者の集団が結成をされます。これを俗に党ともいいます。自民党とか民社党とかいう、あの党でございます。念仏者の党と申します。この二十五三昧会は、お念仏を称えて浄土往生を願う集いでして、ここでは法王も僧も庶民も、身分とか地位とかを越えまして、みんな平等なんだ、同じ党員なんだ、同じお念仏を求めて集まった結社なんだという意識によって連なっています。こういった二十五三昧会という集会のあり方が、初期の親鸞聖人時代の念仏者達の集まりのお手本になったというふうに考えます。
親鸞聖人のお立場の中に、聖人はご承知のように、二十年にわたる比叡山の修行を放擲なさいまして、法然上人の門下に入られ、そこで浄土往生の道を選ばれました。ただ親鸞聖人のその後の行動の中には、山をお出になったのではございますが、やはりある意味では山の伝統を継承してゆこうとなさる面と、山の伝統を超える、或は山の伝統を否定なさる、そういった二つの立場がみられます。二十五三昧会という山の伝統の中で出てきたよい結社のあり方を、継承なさってゆくという、そういったところが見られます。
もう一つ親鸞聖人が山の伝統を継承なさった面といたしましては、聖人は愚禿親鸞と名乗られますが、この愚禿という言葉は、山を開かれた傳教大師最澄が、比叡山に入山されましたときの願文の一節に、こういう言葉があります。
「愚中の極愚 狂中の極狂 塵禿の有情 底下の最澄」
親鸞聖人は山で修行しておられるときに、最澄のこの願文を知り、最澄のこの心境に共鳴して愚禿と名乗られた。それは自らを省みて、正に愚禿の人間なんだという、最澄の原点に立ちかえって歩もうとされました。こういう形で山の良き伝統は引続き継承なさると同時に、また山の伝統を否定し、越えなさった。例えば二十年間にわたりますところの山の大変厳しい戒・行と修めましたが、悟りを得ることが出来ないということで、戒・行というものを否定をなさる。ところが二十年間山で御修行されましたので、お念仏に帰してのちも、悟りへの行というものが顔を出します。
これは恵信尼様のお手紙にみえます「佐貫におきまして三部経の千部読誦」、あのお話もやはり二十年間という山での修行生活の中で、読誦の行を大変厳重に行った、山の修行の習慣が出てきたのではないかと拝察されます。これは親鸞聖人が四十二才の時、上野の国、現在の群馬県の佐貫に滞在しておられた時、衆生利益のために三部経の千部読誦を思い立たれました。しかし、専修念仏者にとって、称名よりほかになすべきことなく、ただ念仏によって救われることを、一人でも多くの人に伝えることこそ、本当に人びとに幸福を分かち合うことが出来るのだと思い返されたということです。それがまた十七・八年の後、お経を一生懸命読んでおる夢をご覧になって、やはり山で行った自力の修行というものがなかなか抜けがたいということを、慨嘆なさったということが恵信尼さまのお手紙にしるされています。親鸞聖人は悟りを求めるための戒とか行というものは否定をなさる。否定をなさるというのは自分にはとても出来ないんだ。一生懸命やったけれども駄目だったとこういう意味での否定です。
聖人の山の伝統否定につきまして、もう一つ神祇不拝、即ち神様をあがめないということ。これはその当時の法然上人門下の方々におきまして、神祇不拝という気風が盛んでした。このことは念仏を破斥致しますところの旧仏教から大きく指摘を受けています。もともと比叡の天台は、神仏融合という形で展開します。聖人はこのように神道と密着をした仏教というものを否定しておられます。こういうことで、親鸞聖人のご生活の中には、山の伝統を継承する面と山の伝統を否定をする面とこの両面が伺われます。また法然上人の門下にはいられましても、法然上人のみ教えを継承する面と法然上人を越える面ですね、こういった二つの面が伺われます。それはまた即、教団のあり方にも反映をします。
親鸞聖人は法然上人から専修念仏を受け継がれます。専修念仏といいますのは法然上人が、読誦とか観察とか礼拝とか讃嘆供養という、阿弥陀仏に救いを求める行の中から、特に称名の行だけを取り上げられまして提唱なさったわけです。
鎌倉仏教の特徴は専修なんですね。鎌倉時代というのは二者択一の時代で、例えば鎌倉幕府が成立しますが、一方には伝統的な朝廷というものがある。京の朝廷か、或は東の鎌倉かという二つの勢力が競う時代であります。また仏教教団におきましても、例えば聖道か浄土か、或は浄土門の中にも、一念とか多念とかいろいろな考え方があります。二つの対立の中から一つを選び取っていこうという傾向があるのが、鎌倉時代の風潮で、仏教の中にもそれが現れてきています。
天台の聖道を選ぶか、浄土の念仏を選ぶかという立場。そこで法然上人の立場は浄土の念仏を選ばれて専らそれを修めるというのです。これは日蓮宗ですと専修唱題、専ら南無妙法蓮華経のお題目を唱える。道元の曹洞宗ですと只菅打座という一つの事柄に全精力を傾注してそれを専らにしていこうとこういう風潮が鎌倉仏教の特徴であるといわれます。
法然上人の専修念仏は法然上人が独創なさったわけではございません。中国の善導大師の御心を継がれました。偏依善導といわれておりますように偏に善導に依るという立場です。法然上人の専修念仏は、法然上人が初めてお開きになったのではなく善導大師のみ教えに従って専修念仏を提唱なさったのでした。こういった形で親鸞聖人のお承けになられました専修念仏というのは善導から法然へ、法然から親鸞へという流れを辿って来ています。
ところが法然上人のみ教えを聞きました門下の中にも法然上人の御心をどう読み取るかということで相違が出てきます。例えば、一念とか多念とかいう問題が出てまいります。一声の念仏によって往生できるのか、或は数万遍の念仏を称えなくては往生できないのかという、こういった一念多念という問題につきまして親鸞聖人は、信の一念に於て往生浄土が成就するというご自身の立場を明らかにしておられます。こういった点が法然上人の立場を越えた立場と考えられます。
また例えば法然上人の悪人に対する立場も、悪人も念仏によって往生が出来るといっておられますが、親鸞聖人は悪人正機と悪人こそが仏様のお救いの目当てなんだというふうに法然上人のお立場を純化して行かれる。こういった親鸞聖人のお考え或は親鸞聖人の人格というものを中心にいたしまして教団が形成をされます。
(3)初期教団と北陸
初期教団と北陸という項目を立てたのですが、いつごろから親鸞聖人のみ教えが北陸路へ入ってきたかということにつきまして、親鸞聖人の御門弟方のお名前を記録を致しました親鸞聖人門侶交名帳がございます。この門侶交名帳とは親鸞聖人が亡くなられました後に念仏者が弾圧を受けますが、その弾圧の対象になりましたのが時宗の念仏者でありました。そのそばづえで親鸞聖人の門弟方も弾圧を受けたので、親鸞聖人の御門弟は時宗の念仏者とは違うのですよということで、幕府にその門弟方の名前を記して提出をしました。それがこの親鸞聖人門侶交名帳です。
この門侶交名帳に親鸞聖人の全御門弟方の名前を記してあるかと申しますと、そうではございませんで、かなり欠落をしています。この交名帳には四十八名の直弟子を掲げてありますが、お手紙とかお聖教等にはありながら、ここには出てこない方もいらっしゃいます。直弟子の数は百名前後ではなかったかと推測されております。そうした百名前後の御門弟の中で越後出身の覚善という方が一人見えるだけで、北陸路には御門弟のお名前が出てこないのであります。
従いまして親鸞聖人時代には越前・越中・越後では親鸞聖人のみ教えはまだ行き届いてはいなかったのではなかろうかと推測されます。聖人が越後に流罪になって送られていく途中で御教化をなさったという伝説の残っているところもありますが、しかし流人としてお下りになったのですから、途中で御教化をなさったというようなことは考えられないことですから、やはり門侶交名帳にありますように、聖人時代には浄土真宗は北陸路ではご縁が薄かったのではなかろうかと想像されます。
しかし北陸路に法然上人のお念仏は伝わっていた形跡はありまして、それは例えば越中に光明房というお方がいらっしゃいまして、同人に宛てた法然上人のお手紙が残っております。従って越中には、法然上人の御門下の方がいらっしゃった。また親鸞聖人の門弟で越後には覚善という念仏者もおられました。従って全く無縁ではなかったということで、浄土真宗のみ教えが北陸路に入ってくる下地は十分に出来上がっていたと考えられます。
この越中光明房への法然上人のお手紙の内容は
「一念往生の義、京中にもほぼ流布するところ無し。おおよそ言語道断のことなり。誠にほどほど御文に及ぶべからざるなり。ひとえに十念一念なりと執じて上尽一形を廃するじょう無慚無愧のことなり」
というものです。この内容から拝察を致しますと、光明坊が一念多念につきまして質問しまして、それに対して法然上人がご返事をされたものです。
一念義と申しますのは法然上人門下の幸西とか行空という方々が、一念の念仏でも浄土に往生できるのであるということを説かれます。それに対して多念義といいますのは、たくさんお念仏を称えて浄土往生を願うべきであるという考えです。そこで光明房が一念或は多念のことにつきまして質問をしたのに対しまして「一念往生の義、京中にもほぼ流布するところ無し、おおよそ言語道断のことなり」と、手紙の中で法然上人は一念義を批判なさっておられます。
一念義の中には、いわゆる造悪無碍、悪いことをしてもお念仏を一声、南無阿弥陀佛と称えたならば、その悪事が消えてしまうのであるという傾向がありましたので、そうした点から法然上人は一念義をこの時点では批判をなさっておられます。ただ別のお手紙の中で「悪を作る凡夫であっても一念して必ず往生する」ということをおっしゃっています。しかし自身は一日に何万遍も念仏を称える多念の立場を取っていらっしゃいます。
一念多念につきまして越中の光明房のお手紙の内容から拝察を致しますと、北陸路におきましてお念仏が流布していたんだということがらが窺われます。従いまして親鸞聖人のお念仏が北陸路に伝わる下地は早くから出来上がっていたということが考えられます。それでは一体いつごろから本願寺による伝道がこの地に及んだかという問題になりますが、それはやはり覚如聖人の時代を待たなくてはいけないのではないかと思われます。そこで次に、本願寺門徒と讃門徒というテーマを掲げて申し述べたいと思います。