一心同体 みんなの法話
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一心同体
本願寺新報2005(平成17)年11月20日号掲載
三重・聞光寺住職 大竹 輝道(おおたけ てるみち)
自分中心の思いの中で
先月、ご本山の常例布教のご縁をいただいた時、総会所でとっても素敵な出あいがありました。
私は「凡夫」ということについてお話していました。
「凡夫」とは、この私のことです。
人のことを「器(うつわ)」と表現することがあります。
「あの人は心が広く、どんな人にも優しい、とても器の大きな人だ」とか、「ちょっとしたことでもすぐに怒る、器の小さい人だ」などと会話の中で聞くことがあります。
また、そんな自分の器にあう人は好きな人・良い人で、あわない人は嫌いな人・悪い人と区別しているようです。
自分中心の思いにとらわれて、さまざまなことに思い悩んでいるのが「凡夫」の私です。
人は赤ちゃんの時には、おなかがすけば泣き、眠くなると泣き、おむつがぬれると泣く。
そんな頃から少しずつ成長するにしたがって、自分は親・兄弟・姉妹・友人や無数の人々とのつながり、さまざまな縁によって生かされていることに気付き始めます。
やがて器と器が少しづつ重なり合って、家族や社会と関わり合い、そのつながりの深さによって他の人や物に対して、時には優しさや思いやりとなり、そのまま放ってはおけない気持ちになるのではないでしょうか。
今は浄土の妻とともに
他の人の気持ちを思いやること、共感、共有することは大変大事なことだと思います。
しかし、これがなかなか言葉で言うほど簡単なことではありません。
例えば、夫婦ということについて、「一心同体」という言葉がありますが、「きょう、こちらに来られているみなさんは、どんなお気持ちでしょうか」とお聞きいたしました。
すると、大半の方は「そんなことはない。
夫婦が一心同体ということはない」というご意見でした。
ところが、お一人、八十歳ぐらいの男性の方が少し首を横に振られていました。
そこで「おたくのご意見は」とお聞きしますと、「私はいつでも夫婦一心同体です」とおっしゃるのです。
そして「今はお浄土の妻といつも一緒ですから、一心同体です」とおっしゃいました。
この言葉に、総会所の中はお念仏される方もあり、とってもあたたかい空気につつまれました。
お浄土が今まさに、ここに、おはたらきになっていると感じられる、それはそれは、とっても素敵な出あいでした。
今はお浄土で仏さまとなられ、阿弥陀さまのお慈悲の中、苦しみ、悩むこの方をはたらき場所としておられるおつれあいとは、まさに「夫婦一心同体」と聞かせていただきました。
今はお浄土で仏さまとなられ、阿弥陀さまのお慈悲の中、苦しみ、悩むこの方をはたらき場所としておられるおつれあいとは、まさに「夫婦一心同体」と聞かせていただきました。
そして「私たちも阿弥陀さまのお慈悲のぬくもりの中、共々にお念仏を申していきましょう」と、ご法話を閉じました。
有限の私に無限の慈悲
仏さまは、無限のお慈悲の心をお持ちです。
ですから、有限である私のことが心配で心配で、どこまでも放っておけないとおっしゃっています。
自分中心の欲望でしか物事を考えられずに、そのことが他の人をどんなに苦しめているかさえ気付かずにいる私に、どうかお念仏の人生を歩んでくれよとお勧めくださっています。
十数年前の「敬老の日」のことでした。
夕食をとっていると、前坊守が「きょう、子どもたちから手紙をもらった。
涙が出るくらい、とってもうれしかった」というのです。
早速、その手紙を見せてもらうと、ひ孫の姉妹たちが、痛風で足の痛む八十五歳の曾祖母を気遣った、非常に短い手紙でした。
<pclass="cap2">おばあちゃん 足のぐあいはどうですか。
いつもみずきがいらんことばかりしてごめんなさい。
私もわがままいってごめんなさい。
これからも長生きして、いっしょにお浄土いこうね。
<pclass="cap4">おばあちゃんへ
まどか
みずきより
「一緒にお浄土へいこうね」と言ってくれたことが、本当にうれしかったのです。
家族みんなにおはたらきの阿弥陀さま。
お浄土があってよかった。
そして、出あえてよかった。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |