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マンモスも鯨(くじら)も みんなの法話

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マンモスも鯨(くじら)も
本願寺新報2005(平成17)年6月20日号掲載
布教使  武藤 幸久(むとう ゆきひさ)
メスを先に捕まえます

先日、東京湾に鯨(くじら)が迷い込み、話題になりました。
今は鯨を捕ることはできませんが、昔は日本各地に鯨が来ていました。
その頃、漁師さんから鯨を捕る時の話を聞いて、涙が浮かんだことを思い出しました。

「鯨は普通、一頭では来ません。
夫婦か、親子などで来ます。
夫婦の時は必ずメスから捕まえます。
モリが鯨に当たると、鯨は暴れながら引っ張り寄せられますが、その時、オスは逃げずにメスの回りを泳ぎ回っています。
メスを捕獲した後、ゆっくりとオスを捕まえます。
反対に、オスを先に捕まえると、メスはさーっと逃げてしまいます。

かわいそうなのは、お母さんと子鯨の時。
子鯨にモリを打つと、母鯨は絶対に逃げません。
子鯨がどんどん岸に引き寄せられていくと、母鯨はなんとか助けようとぐるぐる泳ぎ回るのです。
子鯨が岸に上げられると、母鯨はモリが打たれていないのに岸に上がってきてしまい、結局一緒に捕まるのです」

漁が終わると大漁の祝いが一週間も続きますが、その祝いの後、全員が不眠症になるのだそうです。
子鯨を捕った時、泳ぎ回る母鯨が実に悲しそうな声で鳴くのですが、その声が人間の耳には「この子はなんにもしていません。
どうか許して下さい。
助けて下さい」と聞こえるそうです。

その漁師の方は「母鯨の悲しそうな声が耳に付いて離れない。
なぜ、俺たちはこんなかわいそうなことをして鯨を捕まえなくてはいけないのか」とつぶやかれました。

漁師の方には、鯨に流す涙がありますが、そんな事も知らずに、うまい、まずいと言って食べていたのがこの私でした。

高度成長を支えた自負
団塊の世代である私の同窓生たちは、そろそろ定年を迎えつつあります。
交わすメールの中に、これからの人生に一抹の不安を読み取ることができます。
日本の高度経済成長を支えてきたと自負する友人の胸の中に、本当にこれで良かったのだろうかという迷いがあるのかもしれません。

お釈迦さまは『観無量寿経』に「なんぢはこれ凡夫(ぼんぷ)なり。
心想羸劣(しんそうるいれつ)にして、いまだ天眼(てんげん)を得ざれば、遠く観(み)ることあたはず」(註釈版聖典93ページ)とおっしゃられました。

阿弥陀さまのさとりの世界を示されるにあたり、私たちが凡夫であることを明らかにされ、心想羸劣、すなわち心のはたらきが非常に劣ったものであるとおっしゃられました。

私たちは今、自分がどうしてこの苦の世界に生まれてきたのか、そして、今、自分がどこにいるのか、そしてこれからどういう人生を歩むべきかが明らかになっていません。
つまり過去・現在・未来にわたって真の自己に目が向けられないところに、私たちの不安があるのです。


ロボットが人間を展示
大阪万博から三十五年。
当時展示された最先端の科学技術で夢を実現した日本は、便利さを享受できる素晴らしい国になりました。
が、気付いてみたら、なんとおかしな国になってしまったことでしょうか。

今年開催されている愛知万博は「自然の叡智(えいち)」がテーマです。
その半面、最先端の科学の結晶であるロボットの万博とも言われます。
どこまでロボットを人間に近づけられるか。
私の老後の介護がロボットに任せられる時代がすぐそこに来ています。
ロボットの開発の基本は「人間を知る」ことです。

愛知博では一万八千年前のマンモスの遺骸が人気を呼んでいますが、今から一万年後、ロボットたちが人間の遺骸を展示して万博を開いているかもしれません。
ロボットたちは人間にどんな説明をつけて展示してくれるでしょうか。
「凡夫」という説明看板が一番適している、などと考えていると可笑(おか)しくなってきます。

しかし、今、有り難いことに、そのおかしさに気付かせていただけるのは、仏法のおかげです。
凡夫の私に阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」とよびかけて下さいます。

母鯨が我が子を守ろうとよび叫ぶ声を無視してきた私に、マンモスも鯨もこの私も共に「衆生よ」とよびかけて下さる如来さま。
そのよび声に包まれている身の幸せを、ただ喜ばせていただくばかりです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/