ホンコサマをモス みんなの法話
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ホンコサマをモス
本願寺新報2003(平成15)年11月20日号掲載
富山・光圓寺住職 平田 堯美(ひらた たかみ)
心温まるおもてなし
もうすぐ師走。
毎年この時季になると、私のお寺では、ご門徒宅を回る「巡回報恩講」が始まります。
その中の一軒に、一人のおばあちゃんがいらっしゃいます。
二人の娘も嫁ぎ、夫には先立たれ、十年来一人暮らしです。
このお家の報恩講にうかがうと、お仏壇には野山の花と手作りのオケソク(小さな丸餅)が供えられ、仏間の座敷には、二人の娘さんとその旦那(だんな)さん、そして今は大人っぽくなった孫(まご)さんが、そろって「正信偈」の経本を開かれます。
おつとめが終わると「今年もみんなそろってホンコサマ(報恩講)をゴエハン(住職)につとめてもらった。
ありがたいこっちゃ。
ノライサマ(如来さま)のおかげ。
ナンマンダブ、ナンマンダブ...」と、おばあちゃん。
そして「さあゴエハン、汚い所やけど、あっちの温(ぬく)い所で着替えてゆっくりと...さあさあ」と、いつもの通り、台所に続く茶の間に案内してくれます。
囲炉裏(いろり)を囲み、それぞれが決まった座に着くと、「ばあちゃん、このゴエハンの好きなもんから出すんが?」と二人の娘と孫たち。
おばあちゃんが昨日から作り始めた料理、そして一年かけて集めた山菜など山の幸です。
「何も買いにいかんでズルをして、あるもんだけですれど、あがって下され」とおばあちゃんがいうと、長女の旦那さんは、ストーブの銚子(ちょうし)を上げてお酒をすすめます。
心温まるもてなしです。
家族の心のつながりが
おばあちゃんは「オラがおらんようになったら、死なはったゴエハンやその親さまにも来てもろとったホンコサマ、モス(仏事を営む)ことできんなあー」とさみしそうに話しました。
娘さんは「ばあちゃん、私らがゴエハンにモシてもろから、安心しられ」。
すると孫(まご)さんは「私は蓮如さんの法要のとき見た立派なワカハン(若院)につとめてもらうから」と。
おばあちゃんはにこにこと笑っていました。
核家族化の現代、その多くは、家族の心がバラバラになっていくようですが、この家は、ホンコサマという仏事を営むことを通して、一人ひとりが「いのち」の縦のつながりを実感されています。
そしてホンコサマに家族が集うことで「いのち」の横のつながりを感じ、日々の感謝と、お念仏に遇(あ)わさせていただくご縁を喜ぶことに共感している皆さんです。
ほんの数日前、この家の前を通った時、おばあちゃんが庭の前で木の桶(おけ)に里イモを入れ、山の腹から引いた水をそそぎ、板を両手で持ち、口もとからは「ナンマンダブ、ナンマンダブ」とお念仏を称えながら洗っておられました。
「近うなったホンコサマまで、イモを洗って喜ばせてもらっております」
私はてっきりもてなしのために、里イモを洗って準備して下さっている、ありがたいことだと思いましたが、本当のおばあちゃんの意(こころ)は他にありました。
「水はナモアミダブツの法水です。
泥まみれの里イモはこの私です。
板でかき回すのは、善知識(ぜんぢしき)(教えに導く方)のご化導です。
罪深いこの私が、善知識のご化導にもまれもまれ、煩悩だらけの汚れや垢が阿弥陀如来さまの法水に洗われてゆきます。
ありがたいことです...」
学問でも理屈でもなく
そんな姿を見ながら五年前の本山での蓮如上人五百回遠忌法要の頃を思い出しました。
おばあちゃんは、ご縁がなくてお参り出来ませんでしたが、私が出勤の折、お下がりのお仏飯をいただいてきておばあちゃんに届けました。
早速お仏壇にお供えして「トウチャン、オラのためにゴエハンから、蓮如さんのお仏飯をいただいた。
ありがたいこっちゃ。
ナンマンダブ」。
その後、近所の方を集めて、みんなでお仏飯をいただいたそうです。
このおばあちゃんの生活は、いつも「ナンマンダブ、ナンマンダブ...」。
お念仏は、学問でもなく、理屈でもありません。
大慈悲の阿弥陀さまの前に立つ心、慈悲の光につつまれて喜んでお念仏する純粋な心が、このおばあちゃんを通して伝わってくるとき、蓮如上人の仰せになった「一文不知の智者」を味わわずにはおれません。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |