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パンドラの箱 みんなの法話

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パンドラの箱
本願寺新報2006(平成18)年7月1日号掲載
教学伝道研究センター研究員 西 義人(にし よしんど)
最後に箱に残ったもの

「パンドラの箱」という、有名なギリシァ神話があります。

人間に災いをもたらすために、神々によってパンドラという女性が創り出されました。
パンドラは神々から美貌や知恵などさまざまな贈り物を受け、さらに「決して開けてはならない」と命じられた一つの箱と、好奇心を与えられ、地上に送り込まれました。
やがてパンドラが好奇心にかられ箱を開けてしまうと、そこから犯罪や病気など、ありとあらゆる災いが世界へ飛び出していきました。

この話のよく知られた結末は、あらゆる災いが飛び出していったあと、最後に「希望」が出てきたので、人間は絶望することだけは免れた、というものでしょう。

実は、この話の結末には別の解釈もあります。
それは、箱の中にはただ一つ、「予知」、つまり未来を知る力だけが残された、というものです。
もし「予知」が世界に放たれれば、人間は未来にどんな災いが起きるかすべて知ってしまい、絶望して生きる力を失ってしまいます。
その「予知」だけは箱の中に閉じこめられたので、人類は希望を失わずに生きていられるようになった、というわけです。
なんとも毒のある解釈ですが、箱にはあらゆる災いが入れられていたのですから、「予知」という災いが入っていたという説の方が、「希望」が入っていたという説よりもつじつまは合っているように思えます。

根拠のない希望を抱く
さて、「未来を知ってしまう」というと、マンガに出てくる超能力のようで、仏教とは関係ないことのように思えます。
しかし、実は仏教は、まさにその「未来を知ってしまう」ところから始まっているのです。

王子として生まれ、この上なく裕福な生活を送られていた青年期の釈尊(お釈迦さま)は、ある日、城の東門から外出した時に、年老いた人がいるのを目にされました。
また、南門から外出した時には病人を、西門から外出した時には葬列を目にし、それらが自分にとって避けられないことであると知り、深く物思いに沈まれました。
そして、北門から外出した時に修行者のすがたを見て、ついに出家する決意を固められたのでした。

生きている限り、老い、死ぬことが避けられないということを、否定する人はいないでしょう。
それは絶対に確実な、私たちの未来です。
ということは、実はパンドラの箱から「予知」が飛び出していたのでしょうか?

私にはそうは思えません。
やはり、「予知」はパンドラの箱の中に残されているはずです。
誰もが確実に老い、死ぬことを頭では知っていながら、そこから目を背け、避けられるものならそれをどうにか避けたいと、根拠のない「希望」を抱いている、この私自身のありさまが何よりの証拠です。

釈尊だからこそ、老い、死ぬという避けられない未来を、青年期にご自身のこととして受けとめることができたのです。
それを我がことと受け止められない私たちのために、「人間は必ず老いて死ぬ」ということが、仏教では繰り返し説かれるのでしょう。

逃げる私を追いかけて
しかし私には、その教えをまっすぐに聞き入れることすらできていないようです。
正直に言えば、今はそんなことを考えたくはありません。
「予知」が出てこないように、パンドラの箱のふたを必死で押さえつけ、仏さまの説かれた真実から逃げようとしているのが、この私なのです。

親鸞聖人は、阿弥陀さまの救いのはたらきについて「ものの逃ぐるを追はへとるなり」と示されました。
阿弥陀さまは、避けられない未来から目を背け、真実から逃げようとする私を、決してあきらめることなく、絶え間なくそばにいて、見守り続けてくださっています。

たとえパンドラの箱のふたが開かなくても、避けられない未来は必ず現実となってやって来ます。
それは数十年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれません。

ただひとつ確かなのは、その時も、今と変わることなく、私のそばには阿弥陀さまがいてくださるということです。
絶望するしかなかったはずの私のところに、阿弥陀さまがいてくださるのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/