ニセ物と本物 みんなの法話
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ニセ物と本物
本願寺新報2005(平成17)年4月1日号掲載
中央仏教学院講師 蓮池 利隆(はすいけ としたか)
千年の闇も一瞬にして
「千年間暗闇に閉ざされた部屋であっても、光が届いた時、すぐに明るくなるようなものである。
『既に千年ものながい間、この場所を占有していたのだから』という理由で暗闇がとどまり続けることはできない」
阿弥陀仏のはたらきにであった時、時間の長短を必要とするのではなく、直ちに救われる、そのことを曇鸞大師はこのような喩えで示されています。
ニセ一万円札・ニセ五百円硬貨が世間を騒がせていますが、それに関してこの喩えを思い起こしました。
ニセ札だけを並べてみてもそれが本物でないということはすぐにはわかりません。
それだけうまく出来ているということなのでしょう。
プリンターの性能が良くなればなるほど、ニセ札の「品質」は向上します。
例えば、程度の悪いニセ札はうまく出来たニセ札と並べたときに見劣りがしてしまいます。
しかし、そのようにうまく出来たニセ札であっても、本物と並べたときに見破られてしまいます。
ニセ札では印刷が鮮明でなかったり、文字がつぶれていたりするそうです。
ニセ札を使えないようにするために新札が発行されますが、またそのニセ札が作られます。
悲しいことですが、どこまでもイタチゴッコが続くのでしょう。
自己中心の偏見や予断
さて、ニセ札の問題は本物のお札と比べることで一応の決着が得られるとしても、本当の価値という点になると事は簡単ではありません。
本物の紙幣・硬貨であっても、お金は所詮お金であってそれを裏付けている価値とは違います。
それではその裏付けとなっている価値が真の本物なのでしょうか。
例えば、働いて得た報酬がお金という形となり、贈り物にするためにお金で品物を買います。
そのようなお金に託された価値が本物ということになるのでしょうか?考えてみると、そこにも本物と呼べるようなものはないようです。
リーズナブルな値段という言い方をよく聞きますが、それは単に個人の価値判断にかなったものをそう呼んでいるにすぎません。
いいかげんな仕事で得た報酬に後ろめたさを感じることもあるでしょう。
逆に真心を傾けた仕事が顧みられないこともあるかもしれません。
すべては各人各様のこだわりの中でものを判断しているのであり、そこに自己中心的な偏見や予断が生じてくるのです。
それは私たちの心底に広がる無明の闇につながっています。
ニセ札は本物のお札の前ではすぐにニセ物であることがばれてしまいます。
最初に喩えを挙げたように、光が闇を追い払うようなものです。
そして、私たちの心底にある闇は阿弥陀仏の智慧の光に照らされてはじめて取り払われます。
ただし、智慧の光と普通の光の間には大きな違いがあります。
曇鸞大師はそのことについて「この光明は智慧の相であり、全世界を照らすときに妨げるものはない。
すべての生きとし生けるものの無明の暗闇を除き去るのである。
光が部屋の中の闇を破るのとはちがうのである」と示されています。
常に自己を省みる生活
闇を払った光に執着すればそれ自体が闇に転落します。
私たちの執着はどこまでもきりがないのです。
そのような私たちの執着が智慧の光によって破られていく様を示した言葉に「破邪(はじゃ)即顕正(けんしょう)」があります。
ニセものを破っていくことそのままが真実をあらわすことであるといった意味ですが、それにはとどまるところがありません。
どこかで落ち着いてしまえばそれもまたニセものに転落してしまうのです。
智慧の光明は「縁起の法」にかなった智慧であり、すべてのものには何一つ執着されるべき「我」がないとする「空(くう)」のあり方によっています。
阿弥陀仏自身が「空」のあり方を完成させているからこそ、智慧の光明で私たちを照らすことができるのです。
私のあるがままの姿を明らかにし、同時に完全な布施行によって無明を取り払っていきます。
私の無明の闇が破られることそのままが阿弥陀仏の智慧のはたらきなのです。
この智慧の光にであったからには、照らされて明らかになった自分を省みつつ、常に智慧の光にかなった生き方を目指していかねばなりません。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |