サルが人間に!? みんなの法話
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サルが人間に!?
本願寺新報2007(平成19)年4月1日号掲載
福岡・海徳寺住職 松月 博宣(まつづき はくせん)
心に響いたブログ記事
東京の築地本願寺のホームページに、ご輪番のブログ(日記)があり、その中に「こたえられない質問」と題した次の記事がありました。
<今、大学生の息子が保育園児だった時のエピソードです。
家族で夕食を食べていると息子が言いました。
「人間の先祖はサルだったんだよね?」
私の父が言いました。
「ほう、よく知っているね。
ひろしくんは賢いね」
すると息子が、
「じゃあ、おばあさまのお母さんは、サルなん?」
私の母は怒って言いました。
「何をいうの!私の母はまだ元気!サルじゃない、人間よ!」
他のみんなは大笑いです。
息子は続けてたずねました。
「おばあさまのお母さんは人間なのか。
じゃあ、いつサルが人間になったの?」
大笑いしていたお寺の家族一同でしたが、あとは黙々と箸(はし)を運ぶだけ・・・>
私は最後の「じゃあ、いつサルが人間になったの?」という言葉が心に響きました。
これは単なる進化論の話ではないですね。
私は、この問いに対して「それは、阿弥陀さまの前に座ることが出来るようになった時が、サルが人間になれる時じゃないか?」と言ってみたいのです。
ひとの目を映すカガミ
阿弥陀さまの前に座るということは、ごまかしのない真実なるもの、永遠なるものの前に身を浸すということにほかなりません。
それは生きることの意味と、自分とは一体何者であるのか?ということが問題になるということです。
浅田正作さんの詩です。
<pclass="cap2">毎朝毎朝
洗面台の鏡に向かって
私は自分のなにを見ていたのだろうか
この詩のように、私たちは毎朝、鏡の前に立つのを忘れることはありません。
しかし、一体何を見ているのでしょうね?
鏡は自分を見るものだと思っていますが、髪が乱れていないか、お化粧はきちんと出来ているか、服装の乱れはないか・・・と、自分の外見を点検することで他人(ひと)さまに恥ずかしくない自分を取り繕うためであるとするなら、鏡は自分自身ではなく「他人さまの目を見ている」ことになると思います。
阿弥陀さまの前に座るということは、その鏡に映らない私を見させてもらえる場を持つことに他なりません。
その時「サルが人間になれる」に違いないのです。
他人の目はごまかせます。
しかしごまかしの効かない阿弥陀さまの前に座る時、自分の姿を思い知らされます。
私が死ねばあんた楽に
義父を介護されながらお寺にお参りし、ご法話を聴くご縁を重ねているご婦人がいらっしゃいます。
「義父(ちち)が介護する私に、泣きながら『すまんなあ、わしが早く死ねば、あんた楽になるのになあ』というのです。
その時、『何を言うのです!そんな悲しいことは言わないでください!』と私も泣きながらお義父(とう)さんを叱(しか)りました。
しかしそう言いながら、私のこころの底に冷たいものがよぎりました。
『そうだったらどんなに楽か・・・』
それに気づかされた時、私が恥ずかしくて」と述懐されたのです。
この方は他人さまの目には決して恥ずかしくない、立派に介護をされる素晴らしい方です。
しかし、ご婦人をして「私が恥ずかしい」と言わしめる背景には、ごまかしのない真実の阿弥陀さまの前に座る生活があるのです。
それはそのまま、恥ずかしい私を、悲しみ抱きしめてくださる阿弥陀さまの温もりの真っただ中でもありました。
うぬぼれることが出来るものは一つも持ち合わせていないお粗末な私が、お粗末なままに阿弥陀さまに抱かれている、という大きな安心感の中で、お粗末であるからこそ、せめてこれぐらいのことはさせてもらいましょうと、今日の私を生きる時こそ、サルが人間になれるその時であり、同時に仏になることの出来る身の誕生でもあると思うのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |