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よ~く考えよう みんなの法話

提供: Book


よ~く考えよう
本願寺新報2004(平成16)年4月10日号掲載
大阪・常徳寺衆徒 宇野 真司(うの しんじ)
なぜ「いただきます」

最近よく耳にする「♪よ~く考えよう...」というテレビのコマーシャルをご存じでしょうか。
流行や趣味には一生懸命になりますが、その他の事は、世間一般はこんなものだと、自分自身ではよく考えなくなっているように思います。
だから最近、私の友人の間で「♪よ~く考えよう」が流行(はや)っているのです。

先日、ご門徒のお宅にお参りに行った時のことです。
「命」ということをお話しようと思い、「食事の時に、いただきます、ごちそうさま、と言いますが、なぜそう言うのでしょうか。
考えた事がありますか?」とお話していたのです。

ほとんどの方は、幼稚園の頃から「いただきます」「ごちそうさま」と言うことは知っているのですが、なぜそう言うのかと問われると、「ん?」と一瞬つまってしまうのではないでしょうか。

この私の命をつないでいくために、目の前の食卓に並んだお肉やお魚、お米に対して「(この命を)いただきます」「(おかげさまで)ごちそうさまでした」と感謝を表す言葉なのです。

上に省略されている( )の部分が大切なのではないでしょうか。

「この私に食べられるために生まれてきた命は無いでしょう...」とお話をしましたところ、ご門徒のご婦人に「え~そうなんですか。
じゃあ何のために生まれてきたの?」と言われ、絶句したことがありました。

人間から見た一方的な考え方しかできなくなっているのです。
単に食材として見ているだけで、命あるものをいただいていると思っていないのでしょう。
手を合わせていただくのは、そういう意味があるのです。

憲法9条の改正問題が
そこで最近、私が気になっている事の一つに、平和の象徴である憲法九条の改正問題があります。
「日本国憲法」が公布された翌年、文部省が中学一年生用に作った社会科の教科書には、「二度と戦争をしないように、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。
これは戦力の放棄といいます。
日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです(抜粋)」とあります。
憲法にも命の尊厳がうたわれているのです。

考えたらすぐに正解が出てくるというものではありませんが、一歩ふみ込んで考えてみると、物事の本来のあり方(本質)が見えてくることも多いと思います。
あらためて一人ひとりが「よ~く考えよう」ではありませんか。

見捨てる事ができない
さて、私たちの日常生活を考えてみても、やはり自分の都合のいいことばかりとなっています。
石油の利権のために戦争を起こしたり、軍隊を派遣したり。
また私の命が危ないかも知れないとなると、当たり前のように何万羽もの鳥を殺して平気な顔をしているのです。

『歎異抄』の後序に「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(註釈版聖典853頁)とあります。

法律を犯すような事はしていないかも知れませんが、している事をよく考えてみれば、地獄行きまちがいなしのこの私です。

阿弥陀さまの願いとは、命は大事とわかっていながら合掌して食事をいただくこともせず、二度と戦争はしないと考えながらいつしか同じ道をたどっている私たちを、見捨てることができなくて、浄(きよ)らかな真実の世界、お浄土へと救って下さるはたらきです。

この私を救うために、五劫という長~い長~い間、考えに考えてたてられた願いです。
それほど人間(私)は救われ難い存在なのでしょう。

親鸞聖人が「親鸞一人がためなりけり」とおっしゃられたのは、ご自身が一番救われ難い存在であるから、阿弥陀さまのお救いの一番のめあては、親鸞であると味わわれたのでしょう。

私はいつも「親鸞一人がためなりけり」を、「私一人がためなりけり」と読み替えて味わわせていただいています。

日頃、私がしていることを含めて「よ~く考えよう」とはたらきかけて下さっているのが、南無阿弥陀仏の阿弥陀さまです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/