やわらかな眼 みんなの法話
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やわらかな眼
本願寺新報2005(平成17)年8月1日号掲載
勧学 内藤 知康(ないとう ちこう)
悟りの世界のものさし
世間にはさまざまな宗教がありますが、人々の宗教に対する態度もまたさまざまです。
宗教に熱心な人もいれば、全く無関心な人もいます。
現代という時代は、宗教に熱心な若者が周囲から奇異な目で見られることが多いような気がします。
大学で、新入生に宗教に対するイメージを聞いても、「こわい」「あぶない」という答えが多く見られます。
特にオウム真理教事件の直後は、このような傾向が顕著でした。
ところで、人々が宗教に熱心な人を奇異な目で見るとき、宗教に対する熱心さが、視野の狭さに結びついている場合が多いのではないでしょうか。
もちろん、宗教は世間の常識に従うことを教えるものではありません。
逆に、世間の常識を根っこからひっくり返すことを教えるという側面も持っています。
世間の常識がいつも正しいのではなく、いつも間違っているのでもありません。
仏教の立場からいうならば、世間の常識とは迷いのものさしに基づいたものに過ぎず、悟りの世界のものさし、仏の眼というものさしがあることを教えるのが仏教ですから、世間の常識を根っこからひっくり返す立場を基本的に持っています。
世間の常識をひっくり返すといっても、ただ非常識な指導者が非常識な教えを説くだけのものと、世間の常識にとらわれない新しい視点を教えるものとは区別されなくてはなりません。
宗教というものを、宗教的指導者に対して無批判に追随するような信者を生み出すような宗教と、それまで見えなかったものが見えるようになる眼を与える宗教とに分けるとするならば、仏教は後者の宗教ということになるでしょう。
古い見方を捨ててこそ
ところで、それまで見えなかったものが見えるようになるということは、やわらかな眼を身につけることだということができます。
では、やわらかな眼を身につけるには、どうすればよいのでしょうか。
やわらかな眼の逆は、かたい眼です。
いったん身につけたものの見方を頑として変えないというのではやわらかい眼とはいえません。
新しいものの見方を受け容れるということは、古いものの見方にこだわらないということです。
心が古いものの見方でいっぱいになっていますと、新しいものの見方を受け容れる余裕がありません。
私の恩師の村上速水先生の著書『道をたずねて』(182ページ)には、源信和尚(かしょう)の『往生要集』に引用されている龍樹菩薩の『大智度論』のご文、「雨の堕(お)つるに山頂には住(とど)まらず、必ず下(ひく)き処に帰するがごとし。
もし人、驕心もて自ら高くすれば即ち法水入らず」(訓読・村上先生)が挙げられ、高徳の僧が、村第一のもの知りを自任する長老の驕慢心(おごりたかぶる心)をたしなめるために、急須から茶碗に茶を注ぐのに、溢(あふ)れてもなお注ぎ続けるという話が紹介されています。
自分の位置を低くして
『歎異抄』には親鸞聖人のお言葉として、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそたごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(註釈版聖典853ページ)が出されています。
この中、「煩悩具足の凡夫」とは、なによりも聖人ご自身のことであったのでしょう。
「どうせ世の中のことは嘘っぱちばかりだ」と、冷笑的に世の中を見ている人が時にいますが、この人には、世の中を嘘っぱちだと見る自分自身の眼が嘘っぱちであるという視座が欠けています。
これではただの思い上がりでしょう。
ある小説に、ローマカソリックの司祭の「少しでも神に近づこうと思って、高い塔の頂上などで祈るようになると、逆に人間は堕落する。
自分が特別な人間かのように思って、下にいる人々が虫けらのように見えてくるから。
祈りとはできるだけ自分を低くして行うべきものだ」(取意)との言葉が出てきます。
私たち浄土真宗のものにとっても味わい深い言葉です。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |