やさしさってなんだろう みんなの法話
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やさしさってなんだろう
本願寺新報2001(平成13)年5月10日号掲載
南荘 乗宏(なんじょう じょうこう)(静岡・教覚寺住職)
一つめのやくそく
え.秋元裕美子
<pclass="cap2">みほとけの
み教えを聞くものは
なかよく やさしく
礼儀ただしくいたします
<pclass="cap4">・ ・
教覚寺少年会の例会では、「らいはいのうた」のおつとめが終わると、「三つのやくそく」をとなえます。
その一つめのやくそくがこれで、『仏説無量寿経』の中の「まさにあひ敬愛(きょうあい)してあひ憎嫉(ぞうしつ)することなかるべし」(註釈版聖典55頁)のお言葉が元になっているそうです。
このやくそくそのもの、というような話を読んだことがあります。
「森の中では、春になってまず林床(りんしょう)の草花たちが、葉を出し花をつける。
次に低木(ていぼく)が芽吹いて、低木がしっかり葉を出したのを確認したかのように、亜高木(あこうぼく)(中ぐらいの木)が葉を出し始める。
そして、森の下の部分がすっかり緑になったのを見届けてから、やおら高木たちが葉を出し始める。
高木が先にさっさと葉を出してしまえば、低木にも林床の草花にも太陽の光は届かず、育つことができないからだ。
このように、森は多様性を尊び、大きいものは小さいものを、寿命の長いものは短いものをいたわっているかのようで、だからこそ、森は豊かなのだ。
森の中に入ると心が和みやさしくなるのは、森ではどんないのちも大切にされているからにちがいない」
(徳村彰『森に生きる』)
森の、何の打算もはからいもない「なかよく、やさしく、礼儀ただしい」姿に感動を覚えます。
自然はなんと、智慧と慈悲に満ちあふれていることでしょう。
いのちへの慈しみが
やさしさといえば、若くして世を去った童謡詩人・金子みすゞさんの詩が思い浮かびます。
ゆめ売り
<pclass="cap2">年のはじめに
ゆめ売りは、
よいはつゆめを
売りにくる。
たからの船に
山のよう、
よいはつゆめを
つんでくる。
そしてやさしい
ゆめ売りは、
ゆめの買えない
うら町の、
さびしい子らの
ところへも、
だまってゆめを
おいてゆく。
(金子みすゞ童謡集『明るいほうへ』JULA出版局)
金子みすゞさんの詩に、ほとけさまのまなざしを感ずるのは私だけではないと思います。
物事を深く洞察する智慧に裏打ちされた、あらゆるいのちへの慈しみの心、そのほとけさまのような心が、みすゞさんのやさしさあふれる詩となっているのでしょう。
限り無い智慧と慈悲のほとけさま、アミダさまのご本願のはたらきを「摂取不捨」という言葉であらわします。
アミダさまは、あらゆる衆生をもらさず摂め取って、決して捨てたまわないとお誓い下さいました。
ところで、「捨てる」の反対は「拾う」ですが、手偏に合わせると書いて「拾う」とは、なんと味わい深いことでしょう。
「不捨」のお誓いは、もったいなくも、アミダさまが手を合わせ、この私を拝んで下さっているということではありませんか。
私よりも先に
今は亡き東井義雄先生が残された「拝まない者もおがまれている 拝まないときもおがまれている」という珠玉の言葉があります。
先生が峠を自転車で走りすぎる時、うっかり手を合わせることを忘れてしまっても、峠のお地蔵さんは黙って私を拝んで下さっていたことに気付いて、ハッとなさったそうです。
アミダさまも、私が手を合わせるよりも先に、私を拝んで下さっており、私が願わずとも、大きな願いをかけて下さっているのですね。
アミダさまに拝まれ願われていた私が、そのアミダさまのやさしさに触れる時、私もアミダさまに手を合わさずにはおれません。
先に、『仏説無量寿経』のお言葉を引かせていただきましたように、「やさしくする」とは「敬愛する」こと。
「敬愛する」とは、お互いに拝み合うということなのではないでしょうか。
アミダさまの平等のお救いをよろこぶ者同士は、お互いに尊敬と信頼の念をもって、「とも同朋(どうぼう)」と拝み拝まれながら生きていきたいものです。
蓮如上人の『御文章』に、「聖人は『御(おん)同朋・御同行(どうぎょう)』とこそ、かしづきて仰せられけり」(同1084頁)とありますが、親鸞聖人も、同じ信心に生きる人々のことを「御同朋・御同行」と敬意をこめて呼ばれ、いつも手を合わせておられたのだと思います。
今月も少年会の日がやってきました。
「みほとけの み教えを聞くものは なかよく やさしく 礼儀ただしくいたします」―こどもたちの元気な声が聞こえてきます。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |