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み仏にどちらを向いても拝まれている私

提供: Book

ある精神医科の先生の書物を読ませていただきました。そこに、人間の生き方を分析すると、約五〇〇〇通りの生き方があると記してありました。

 わたしはその専門のことはよくわかりませんが、私はみ仏の教えでは八万四〇〇〇の煩悩の身であると言われていることを想い出したことであります。

 いいかえれば、人の生き方は、方向のない生き方をするものであるということでありましょう。

 そう言われてみれば、朝は少しは理性的に考えたかたと思えば、夜は野獣よりも野獣的にならないとは誰が保障することができるでしょうか。ほんとうに、どちらに向かって、何をしでかすかもわからないというのがほんとうのすたがだといわねばなりません。

 親鸞聖人はそのことを「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と示されているのであります。また「こころは蛇蝎のごとく」とも述懐されています。

 蛇や蝎は何もないときは小さな舌をひょいと出して愛嬌さえあるかのように動いていますが、一旦緩急があれば、全身の毒で噛みつくのです。

 しかし、これは蛇や蝎だけではなく人もまたそれと同じ生きざまであるといわれているのであります。まさに縁がもようした時には思いもよらない、予想もしていない行動をする生きものであるということであります。

 このような生きざまをしている、私たちをそのままにはしておけないと立ち上ってくだされているのが阿弥陀さまであります。

 いま、立ち上ってくだされている、と申しましたが、ご本尊の阿弥陀如来は「立撮即行」といいまして、まず、ご本尊の阿弥陀如来は立っておいでになります。立っていられるということは行、すなわちはたらきどおしであるということであります。右手のすがたは「招喚の印」すなわち、招き喚んでくだされている智慧のしるしであります。また左手を上に向けておられるのは「摂取の印」すなわち摂め取って捨てない、必らずもらさずに救うという慈悲のしるしであります。

 「立撮」の「撮」は記念撮影の「撮」で、真うつしにとる、すなわち、そのまま救うという意味であり、また先輩はこの撮を「つまだつ」とよんで、まさに飛び込む刹那のすがたであるとよろこばれたのでありました。

 いずれにしても、八万四〇〇〇といわれる煩い悩みの身を生きるわれらを見捨てることなく、拝むこともしらなかった私をひるがえして、拝むものに仕上げるために、み仏の方が私たちを拝んでいられるのでありました。

 「仏かねてしろしめして」とあるように、私のあり方を前より見据えた上で拝まないものをこそをと仏が私たちを拝んでいられるのであります。



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。