みほとけのよびごえをきく みんなの法話
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みほとけのよびごえをきく
本願寺新報2000(平成12)年5月10日号掲載
山崎 教真(やまざき きょうしん)(岩手・浄泉寺住職)
北国の春風
え.秋元 裕美子
私のふるさとの岩手県は、京都から千㌔以上も離れています。
寒く、長かった冬がやっと終わり、北国の地にも遅い春が来ました。
岩手の地に春の到来を告げる花は、梅、水仙、福寿草、桃、マンサク、こぶし、カタクリ、水バショウ、そして桜や木蓮の花です。
これらの花が四月末から一斉に咲き始め、五月の強い春風に吹かれ、枝を揺らしながら、懸命に咲いています。
花を見ていると、やっと春が来たのだという実感が湧(わ)いてきます。
五月下旬ごろになると、農家では田植えに追われ、猫の手も借りたいほど大忙しの時期になります。
この地では、四月下旬に、梅の開花を待ちかねたかのようにウグイスが飛来し、木の枝を飛び移りながら、美しく、軽(かろ)やかな声で「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ」と鳴いています。
やがて田植えも終わり、梅雨の季節が近づく六月になると、カッコウが木の頂上で、遠くまで聞こえるような大きな声で、早朝から一日中鳴いています。
さらに、カッコウと前後して、ホトトギスの鳴き声が「キョッキョキョッキョ、キョ」と鋭く響く声で初夏を告げるようになります。
まさに「花鳥諷詠(かちょうふうえい)」「百花繚乱(ひゃっかりょうらん)」といった言葉がふさわしい、北国の春になりました。
ウグイスの声
かつて、蓮如上人は、ウグイスの鳴き声を「法を聞けよ」と心で聞かれたことは、有名なエピソードです。
迷い、苦しみの海に、溺(おぼ)れ、流転(るてん)し続ける私に、必ず救うと喚(よ)びかける阿弥陀如来の誓願(おじひ)を、「仏法は聴聞(ちょうもん)にきはまる」(『蓮如上人御一代記聞書』・「註釈版浄土真宗聖典」1292頁)と、聴聞(きくこと)の大切さをいわれています。
また、「きく」ということについて、「御文章」では次のように述べられています。
「これによりて『南無阿弥陀仏』といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名(みな)なりとみえたり。
このゆゑに、願成就の文(がんじょうじゅのもん)(大経・下)には『聞其名号(もんごみょうごう)信心歓喜(かんぎ)』と説かれたり。
この文のこころは、『その名号をききて信心歓喜す』といへり。
『その名号をきく』といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり」(三帖六通・1145頁)と、「仏法を聞く」ことの意味、理由は「南無阿弥陀仏の六字の生起本末(しょうきほんまつ/おいわれ)をよくききひらく」ことであると示されています。
聞くということ
宗祖親鸞聖人は「きく」ということについて、次のように述べられています。
「『聞其名号』といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを『聞(もん)』といふなり。
またきくといふは、信心をあらはす御(み)のりなり。
『信心歓喜乃至一念(ないしいちねん)』といふは、『信心』は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『一念多念証文』・678頁)
このように、「聞く」という意味は、「如来の誓願(こころ)を聞いて、疑心(ぎしん/うたがいごころ)の無い」ことです。
今、聞こえる「ウグイスの声」は、「六字(ほとけ)の名号(よびごえ)を聴け」と、本願の教えを私たちに勧めて下さる釈尊(しゃくそん/おしゃかさま)の発遣(はっけん/おすすめ)のように思われます。
また、木の頂辺(てっぺん)で鳴く「カッコウの声」も、おまえを救う親さまはここにいるぞ、煩悩に苦しみ、無明(むみょう)につまずいて生きているおまえの姿をお見通しだぞと、召喚(しょうかん/よび)続ける、阿弥陀仏の声のように聞こえてなりません。
ホトトギスの声
初夏を告げるホトトギスの鳴き声は、古来より愛(め)で、賞せられ、和歌や俳句に詠(よ)まれています。
<pclass="cap2">ほととぎす 鳴きつる方(かた)を ながむれば
ただありあけの 月ぞ残れる
(藤原実定(ふじわらさねさだ))
音羽山(おとわやま) けさ越え来れば
ほととぎす 梢遥か(こずえはるか)に 今ぞ鳴くなる
(紀友則(きのとものり))
ほととぎす あすはあの山 こえて行かう
(種田山頭火(たねださんとうか))
谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま
(杉田久女(すぎたひさじょ))
私の耳に、ホトトギスの声は「キョッキョ、キョキョ」と聞こえますが、一般には「テッペンカケタカ(天辺欠けたか)」とか、「トッキョキョカキョク(特許許可局)」に聞こえるともいわれています。
ここでの「テッペン」とは、私自身の頭の頂(いただき)、つまり、我執(がしゅう)や自力の計(はか)らいで、仏智(おじひ)を疑惑する心のことを指しているように思われます。
「テッペンカケタカ」は、自力の心・仏の慈悲心(おじひ)を疑う心を棄(す)てて、本願のみ教えに帰依(きえ/おまかせ)したのかと喚びかけているかのようです。
春爛漫(らんまん)の季節の中で、私を目当てに鳴いているウグイス、カッコウ、ホトトギスの声を、耳を澄まし、心を澄まして聞いてみませんか。
仏さまの喚び声が、私の心に疑い無く聞こえた時、「仏に導かれ、仏と共に生きる」という、新しく、光に満ちた真実の人生が必ず開けるにちがいありません。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |