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ひとひとなみ みんなの法話

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ひとひとなみ
本願寺新報2001(平成13)年5月20日号掲載
蔵田 了然(くらた りょうねん)(布教使)
5月21日は降誕会

え.秋元裕美子
<pclass="cap2">「不思議の仏智を信ずるを報土の因としたまへり」(「正像末和讃」註釈版聖典608頁)

このお言葉は、阿弥陀仏が迷える者に仏の悟りを得させたい、という願いに報いて成就したお浄土への往生の因は、不思議な仏さまの智慧を信ずるばかりですよ、と親鸞聖人が教えて下さったものです。
五月二十一日は、その聖人の誕生日で、「宗祖降誕会」と称して、お祝いの法要行事が営まれます。

今年は西暦で二十一世紀の幕開けということで、世界的に歴史の節目を迎えました。
西暦はキリスト教にちなんだ暦ですが、今日ではそのように国際暦になっています。
仏教徒も西暦を使わねばならないことも多く、教団の印刷物には西暦も使われています。
西暦は便利な点もあって、年代の足し算・引き算が簡単ですし、歴史的・国際的な出来事を年代で一目出来ます。
そうしたことから、聖人の誕生の年を西暦で記憶しておくと便利だと、先輩からその覚え方を教えてもらいました。
聖人は一一七三年のご誕生ですので「ひとひとなみ=人人並み」と覚えよというのです。
というのは、聖人の生まれ方が人並みだったからです。

一般に偉人・賢人の誕生には不思議な出来事が伴い伝えられています。
仏教の開祖・お釈迦さまの誕生には、天地が振動して天から甘露の雨が降ったと伝えられています。
誕生の行事・花まつりで甘茶をかけてお祝いするのは、その故事によるのです。
キリスト教は特に奇跡の宗教といわれるぐらいですから、いろいろな不思議が伝えられています。
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仏教は縁起の教え
不思議なことといえば、今日では奇跡的なことをイメージするようです。
それは西暦の暦を使わざるをえないように、キリスト教の影響が大きいからでしょうか...。
仏教では、お釈迦さまにまつわるような不思議なことを奇瑞といいます。

「オウム」による超能力の影響でしょうか。
近頃若い人たちが「超大変」とか「超疲れた」というように、やたらと「超」を使うのですが、奇跡的なことに「超不思議」といっているのが気になります。

仏教は縁起の教えともいいます。
すべてのものは、たくさんの因が集って(縁(よ)って)生起していることを意味する言葉で、その道理はすべての基本原理です。
すなわち、因があって果がある、果があることは因がある、という因果の法則です。
因がないのに果が現れることを奇跡といって、仏教では認めません。
そういうことを認める立場は不自然で、科学的視線からしても認め難いものなのに、案外そうした奇跡的なことが罷(まか)り通る人間社会でもあります。

生起した現象がどのような因が集まって起こったのかがわかれば不思議ではなくなります。
その因果関係を見通す能力を智慧といいます。
その智慧が浅い者には、お釈迦さま誕生の不思議な出来事は奇跡のように思えるでしょう。
しかし、そこにはちゃんとした因果関係があるので、それを奇瑞といって奇跡とはいわないのです。
「超能力」とか「超不思議」というと奇跡的なイメージが強いようですが、そこをわきまえる必要があります。

私と同じレベルに
親鸞聖人には誕生にまつわる奇瑞はありません。
私たちと同じ「人並み」のお生まれです。
そこで「人人並み」といただいたのです。
その「人並み」の聖人が、すなわち自身を「罪悪深重の凡夫」といただかれた聖人が、間違いない人生を生き抜いて、お浄土に往生して仏のさとりを得させていただく道を教え、実践して下さいました。

凡夫の私たちにとっては、聖者のみ跡はとてもついては行けません。
私たちと同じレベルに立って下されるお方だからついて行けるのです。
人並み以上の奇跡的超能力に期待したいという気持もわかります。
それだけ、人生は苦悩多く厳しいものです。
だから間違いやすいのです。

私たち凡夫が間違いない人生を生きるには、阿弥陀仏を信じ、その教えに生きよと親鸞聖人は教えて下さいました。
阿弥陀仏には不可思議光というお徳があります。
光は智慧を表します。
一般に知識を表すにも、経済に明るいとか地理に明るいといって光でイメージします。
地理に明るければ道に迷うことはありません。
因果の法則に則り、縁起する世界を見通しておられるので、迷えるものを正しく導けます。
だから縁起を見通せない者から不可思議光仏と讃えられるのです。

縁起を見通す智慧のない私たちは、どう生きればよいのかわからずに右往左往しながら、とにかく生きていますが、それは迷いの生活です。
そうした私たちが、迷いのない間違いない人生を得るためには、縁起を見通され報土を成就した阿弥陀仏に、浄土への人生を教え導いてもらわなければ叶(かな)えられません。
その教えを私たちと同じ「人人並み」(一一七三)のレベルに立って、身をもって親鸞聖人が誕生され、その教えに遇うことが出来たことを、一緒の喜びとさせていただきましょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/