どこまでも逃げるわたしは慈悲のなか
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私は三人兄妹の末っ子で生まれました。幼い頃といえば、兄たちの後ろについて走り回ってばかりいました。家は鍛冶屋を営み、出張で出かけた父は必ず本をお土産に買ってきてくれ、母は料理上手で優しい人でした。母が「平凡こそが手に入れがたいものなのだよ」とよく言っていたのを覚えています。平凡ながらも家族の温かみを感じる日々を過ごしていました。
そんな最中、一つ上の兄が病に倒れました。当時では良い治療法がない病気で、無菌室で過ごす日々が一年間続きました。亡くなった時、兄は十八歳でした。亡くなる日の明け方、心電図でのみ兄が生きているのを確認できる状態の時でさえ、私は胸の中にこみあげてくる言葉を発することができないままでいました。入院中の容態が落ち着いている時は、伝えたい言葉が何か照れくさくて「今度伝えよう」と逃げ、容態が悪い時は「今は辛そうだ。回復してから伝えよう」と逃げ、最期の時は「今、言わなければ…」、でも声に出せず、とうとう「きっと兄はわかってくれている」と逃げてしまいました。
「ありがとう」の一語でさえ言葉で伝えられなかった事実は、今でも心が痛みます。この痛みは消えません。ですが、私が悩める時、帰る場所を求める時に、持ち続けている痛みが導いてくれるのです。「兄がいてくれたから」、そんな想いが自分に満ちてくるのです。
人はあらゆる過去を記憶します。忘れているつもりでも、かならずその記憶が身に染み込み、今の私を育んでくれています。「ああすればよかった…」「こう言えばよかった…」、その慙愧の想いは、なんと大事なものを今まで私に伝え続けてきてくれたのだろう、そう思うのです。
現代は「後悔しない人生を…」と、よく言われます。ですから、半分逃げながら行動するようになる。傷ついて後悔したくないのですから。それだけ、後悔し「悲泣」することがタブー視されている時代なのでしょう。「逃げる」ということも、傷つかず批判されない自分の領域に逃げる、そのように自分に壊れない真実があると思い込む姿です。自分で作った世界に座り込み、巨大な壁で覆い包み、ともするとそのまま終わっていくことになるかもしれない世界です。後悔し、傷つき、泣くことがあってはならないような世界観を感じてしまいます。
ですが、私は「人は逃げるもの」と了解したいと思うのです。真実を知らせる周りから逃げ、虚偽を作り出す自分から逃げ、自らが痛みを伴いながらも、その身を受け取っていける力を持つのが人間であると。どこまでいっても私が私を追いかけ続ける。それを受けとる痛みが大事なのです。私を人間たらしめてくださる痛みなのでしょう。
逃げるべからず、ではなく、逃げる身を受けとる。そこに生じる痛みや悲しみを感じ、涙が流れる。それこそ真実報土を求める本当の姿なのではないかと思うのです。
穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの (教行信証総序『真宗聖典』149頁)
どこまでも逃げ迷う私の姿そのものです。
「どこまでも逃げる私」を受けとることによって悲泣し、逃げる人たちと認め合い、愛し続けられる自分でありたいと願っています。
武樋 和嘉子
1971年生まれ。新潟県在住。
三条教区蓮光寺。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。