ともにいのちかがやく みんなの法話
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ともにいのちかがやく
本願寺新報 2009(平成21)年4月1日号掲載
平山 智正(ひらやま ちしょう)(広島・光円寺住職)
明日ありと思う心の・・・
桜の花が美しい季節になりました。
桜の花を見ると必ず思い出すことが二つあります。
一つは、親鸞さまが9歳でご出家されるときに詠(よ)まれたと伝えられる
明日ありと
おもう心のあだ桜
夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは
という和歌です。
もう一つは、1999年4月に5歳で亡くなった長男のことです。
その長男と一緒に最後に見た花が、我が家の庭に咲いた満開の桜でした。
親鸞さまの和歌の通り、明日のことがわからないのが私自身でした。
しかし、知識としては知っていても、我が身のこととはいただけていなかった私が、長男が亡くなってその意味を噛(か)みしめました。
長男が亡くなってから、たくさんの方からお悔やみや慰め、元気づけようとしてくださるお言葉をいただきました。
その中で、以前から私に阿弥陀如来さまのお慈悲を伝えてくださる知り合いのご住職からの言葉を今でも憶(おぼ)えています。
そのご住職は「あなたと同じ経験はしたことがないので、その悲しみ全部を理解することはできませんが、わが子を亡くすということは大変つらいことだろうと思います。
ところで、周りをよく見てごらん。
あなた以上につらい思いをしておられる方はたくさんおられるのだから」と言われました。
しかし、その時はその言葉の真意がわからず、「周りと見比べて、もっと悲しい思いをしている人がいるのだから、その人と比べるとまだあなたの方が...」と言う意味だと受け取ってしまいました。
気付こうとしない私
そうなると、私はその言葉に納得することはできません。
子どもを亡くした悲しみでいっぱいで、「どうせ私の悲しみなんて誰もわかるはずはない。
私は今こんなに悲しんでいるのに」と思っていました。
いろいろな方から優しい言葉をかけていただきました。
そのたびに「少しずつ落ち着いてきました。
元気を出します」と口では言ってみるものの、心の中では「私の悲しみは誰にもわからない。
今一番つらい思いをしているのは私だ」と叫んでいました。
そんな時、一人の女性から声をかけられました。
「私も20年前に幼い子どもを亡くした経験があるのです。
こんなつらいこと、できることならばもう誰も経験しなくてすむのが一番いいのに」とお話になりました。
その時、私はご住職の「周りをよく見てごらん」という言葉の真意に気付きました。
それまでの私は悲しみのあまり"自分一人だけ""私だけ"という思いでいっぱいでした。
それだけではありません。
長男が元気であった時から、私の周りにはいろいろなたくさんの悲しみを抱えた方がおられたはずなのに、そのことに気付こうともせず、寄り添おうともしませんでした。
けれども、その女性の温かいひと言によって、閉ざしていた私の心は開かれました。
すると、今まで気付こうとしなかった、周りの方の声が聞こえてきました。
私の身近におられた人の声をよく聞いてみると、「私も子どもを亡くした経験があります」と言われる方も少なくはありませんでした。
それ以外にも悲しみや苦しみを抱えながら日々生活をしておられる方がたくさんいらっしゃいました。
その悲しみに寄り添い支えていくことこそが阿弥陀さまの願いであると、ご住職は教えていてくださったのでした。
一歩一歩あゆみを
親鸞さまは、
一切の有情(うじょう)はみなもつて
世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)・兄弟なり
(註釈版聖典834ページ)
と、すべてのものは同じいのちにつらなる父母・兄弟であり、みんな大切な朋(とも)であると教えてくださいます。
約10年にわたる御影堂の平成大修復工事が終わったご本山にお参りすると、「ようこそおまいりを」の言葉とともに「ともにいのちかがやく世界へ」と掲げられていました。
私とあなたがともに大切にされていく社会の実現に向けて、一歩一歩あゆみを進めていきましょう。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |