だいじょうぶ みんなの法話
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だいじょうぶ
本願寺新報2008(平成20)年6月1日号掲載
布教使 朝枝 泰善(あさえだ たいぜん)
ゴールデンウィークに
みなさん、ことしのゴールデンウイークはどのように過ごされましたか。
私は毎年、ゴールデンウイークになると、母方の祖母のことを思い出します。
生前は、年に何度か顔を見せに行くぐらいでしたが、会うたびにいつも「元気にしとる?」と声をかけてくれる、やさしい祖母でした。
年齢を重ねるうち、いつ頃からだったでしょうか、会うたびに同じ事を何度も言うようになり、やがて祖母は施設に入ることとなりました。
私が初めてお見舞いに行った時、施設に向かう車の中で、何度もお見舞いに行っている私の連れ合いに祖母の様子を聞いたところ「お見舞いに行っても誰かわからないみたいだけど、とてもうれしそうにしてるよ」ということでした。
部屋に入ると、祖母はぐっすり眠っていました。
起こしてはかわいそうだと思い、小声で連れ合いに「帰ろうや」と言うと、もう時すでに遅く、「おばあちゃん、お見舞いに来たよ」と、揺すって祖母を起こしていたのです。
目を覚ました祖母は、誰が来たのだろうという様子で、しばらく私たちを見ていましたが、うれしそうな顔をして「だいじょうぶよ」と言うのです。
私が「元気そうだねぇ」と声をかけると、祖母はにっこりと笑い、また眠ってしまいました。
眠った祖母の顔をしばらく見て静かに病室を出ました。
それからしばらく後、ゴールデンウイークに祖母の往生の知らせが届きました。
生死の苦海ほとりなし
私は連れ合いと娘二人を連れ、祖母のもとに向かいました。
下の娘が「お母さん、ひいおばあちゃんはどうしたの」と聞きますので、「仏さまになられたのよ」と話しました。
お通夜にお参りし、最後に喪主である伯父が挨拶をしました。
祖母は9人の子どもに恵まれてお念仏をよろこぶ人間に育てたことや、戦中・戦後の食べ物のない時代にも泣き顔ひとつ見せずがんばったこと、3人の子どもが先に亡くなるという悲しさの中にも、晩年まで元気に過ごしたことなどを語りました。
そして「お母さん、ありがとう。
母は父の説教を聞き、お念仏をよろこんでいました。
そして親鸞聖人のご和讃、
<pclass="cap2">生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(註釈版聖典579ページ)
を自分の節(ふし)にのせて、いつも子守歌のように歌ってよろこんでいました。
みなさんが母のお見舞いに行ってくださった時、母は笑顔で口癖のように『だいじょうぶよ』と言っていたのではないでしょうか。
その『だいじょうぶ』は、すべて阿弥陀さまにおまかせしているからという『だいじょうぶ』だったと思います」と話してくれました。
その挨拶で「だいじょうぶ」の本当の意味がわかりました。
生死の苦海、この娑婆(しゃば)世界にどっぷりと沈んでいるこの私を、阿弥陀さまのご本願の船だけが、たすけずにはおれない、救わずにはおれないとよびかけてくださいます。
祖母との最後のお別れ。
棺(ひつぎ)に花を入れながら、「お母ちゃんありがとう」「おばあちゃんありがとう」「ナマンダブツ」と、みんな涙ながらにお別れをしました。
娘も「ひいおばあちゃん、さようなら」と涙を流して手を合わせ、私も「ナマンダブツ」とお別れをしました。
葬儀が終わりました。
私は母に、祖母がご和讃を子守歌のように歌っていたのを覚えているかと聞いてみました。
すると、
「あなたも、おばあちゃんにおんぶされて聞いたことがあるでしょ。
私も歌ってあげたでしょ...」
私は祖母の子守歌を全然覚えていません。
母の子守歌も記憶がありません。
しかし歌ってくれたのでしょう。
祖母が祖父の法話を聞いて味わい、母が祖母の歌声を聞き、そして私に歌ってくれた歌。
私も大切に伝えていこうと思います。
娘が「ひいおばあちゃんは、仏さまになったのね」と聞きました。
身内の死に初めて出あう娘です。
祖母の言った「だいじょうぶ」は、仏さまの「だいじょうぶ」が届いていたのです。
この私に、そして娘たちにも...。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |