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それぞれの音色 みんなの法話

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それぞれの音色
本願寺新報2005(平成17)年2月10日号掲載
本山・布教研究専従職員  佐々木 法雨(ささき ほうう)
琴づくりに縁起を思う

古くから我が国で親しまれている楽器の中に琴という弦楽器があります。
琴が生み出す奥ゆかしい音色を聞くたびに、思わずうっとりされる方もきっと多いでしょう。

さて、琴は桐という木から作られますが、実は水音のする谷に育った桐であればあるほど、琴にするといい音を出すという話を伺ったことがあります。

なぜならば、谷を駆け抜ける風、注ぐ光、そしてそれらと遊ぶかのように流れゆく水の音を、桐はその身に蓄え、育てているために、いざ琴にして弦を張り、弾いてみると、実に麗しい音色をその身から放つのだそうです。

残念ながら、私自身は琴に対しての素養がないために、実際に、琴のもつ「音の不思議」ついてはその話からしか知り得ませんが、実に味わい深い話だなぁと思います。
そして同時に、この話は混迷を極める、私たち人間の暮らしにも大切なことを教えてくれているように思うのです。

現代文明は、日進月歩という言葉通り、間断なく急速に進化を遂げています。
私もまた、その恩恵を受けて、便利な暮らしを送っています。
しかし、その快適さとは裏腹に、人間同士の心の距離は遠ざかり、触れ合いは希薄なものとなり、最も近しいはずの親子の間であっても通じ合えなくなりつつあるのが現代ではないでしょうか。

人間ありきの世界では
「心の貧困」が叫ばれ続ける中、私たち人間が直面し、抱えている幾多の問題は、私ありき、人間ありきの世界を構築してきたところに原因があるように思えます。
そんな中で、先述した琴のお話は、
「あなたのただ今の存在は、あなたの力で成り立っているのではないのですよ。
無数のご縁が、あなたとなって下さっているのですよ」と教えてくださった、お釈迦さまの「縁起」ということをわかりやすく伝えてくれているようです。

私たちは決して単独で生きているわけではありません。
さまざまな条件が網の目のように張りめぐらされる中で、互いに成り立ち合い、この一瞬一瞬を生きているのです。
琴の中に息づく風光水音は、そっくりそのまま私の中に、今、息づいているということなのです。

無上の仏に成らせよう
「ちかひのやうは、『無上仏にならしめん』と誓ひたまへるなり。
無上仏と申すは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆゑに、自然(じねん)とは申すなり。
かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。
かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。
弥陀仏は、自然のやうをしらせん料(りょう)なり」(「自然法爾(ほうに)章」註釈版聖典622頁)と、親鸞聖人は教えてくださいます。

阿弥陀さまは、この私をこの上ないさとりの仏に成らせようと誓われました。
「自然」とは自己中心的なまなこ、すなわち「自と他」「生と死」という限定された姿や形などの分別を超えた、仏さまのまことの世界。
その真実の世界を、思量・分別の心に縛られ続ける私に知らせんがために阿弥陀仏となられたのです。
阿弥陀さまは「自然」の世界を知らせんがために、片時も休むことなく「すべてのいのちは、皆、かげがえなく、等しい」とはたらき続けて下さっているのです。

縁によって人間としてのいのちを恵まれ、今、ここにご縁がつながり生かされてある「私」でありました。
そしてこの縁が尽きた時には、「かえっておいで」といつでもお浄土があって下さる...。
迷い続ける私のいのちの有りようを映し出し、往(ゆ)くべき世界が阿弥陀さまからすでに届けられてあった不思議を味わいたいものです。
そして、その中にわれわれの日常生活を省みたいものです。
きっとそこには、殺伐(さつばつ)とした世情が一層の深みへはまり込んでゆく、私の有りようが顕(あきら)かになるはずです。

 阿弥陀さまに出遇(あ)い、南無阿弥陀仏に喚(よ)び覚まされる中にこそ、私たちは最も豊かなそれぞれの音色を奏でることができるのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/