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そのままに ありがとう みんなの法話

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そのままにありがとう
本願寺新報2008(平成20)年10月20日号掲載
大分・法林寺衆徒 水之江 陽子(みずのえ ようこ)
いてくれるだけでいい

「悪性腫瘍(しゅよう)です」

医師は静かに言った。
数日前の検診で、少しは覚悟していたが、同席してくれた夫が

「本当に乳がんですか」

と何度も尋ねる声を私は、ぼんやり聞いていた。

私の住む大分県日田市は、水郷と呼ばれ朝霧のたちこめる静かな盆地である。
私は、深い霧の中で、いきなり、行き先の見えないジェットコースターに乗せられた気分になった。

「お母さん、悪いところは全部取ってもらいなよ」

当時、中学2年生だった息子が、私の背中を押してくれた。
結婚して19年。
出産以外では入院したことのない、元気だけが取り柄(え)の母親だったので、家族は、私以上に辛(つら)かったと思う。

手術が終わり、抗がん剤の点滴治療が始まると、さまざまな副作用が襲ってきた。
寝返りをうつことも難しくなった。
脱毛は、私にとって痛くも痒(かゆ)くもないが、日に日に変貌する母親を見ることは、当時小学4年生の娘にとって、とても苦しいことだったと思う。
何一つ、親らしいことができず、情けない思いでいた時、娘がつぶやいた。

「いいとばい。
お母さん。
そのままでいい。
おってくれるだけでいいと」

10歳の娘の目には涙があふれていた。


仏教の基本に照らして
仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と教えてくれる。
これは四法印(しほういん)といい、仏教の基本である。

諸行無常(すべては移り変わる)...山は削られて道になり川は形を変えていく。
幼い頃見た風景は一変した。
形ある物はいつか壊れ、生まれた人は必ず死んでゆく。
思いがけないことは誰にでも起こる。
まちがいなく、この私にも。

諸法無我(不変の存在などない)...全(すべ)てのものに確かなものなど何もない。
私の思いどおりには決してならない。
今まで、子どもが思い通りにならない、と悩んでいたけれど、私の体が、私の思いどおりにはならないのだと、知らされた。

一切皆苦(すべては苦)...苦しい。
人が私に、励まし慰めの言葉をかけてくださる。
「無理しないで」「若いから大丈夫よ」「頑張って」その一つ一つが私の心につきささる。
「無理なんかしていない。
若いのがよくないのだ。
どうして大丈夫などと言えるのか。
これ以上、何を頑張ればいいのだろう」。
私の心は、自分でも哀(かな)しいくらい、とげとげしくなり、そのことが、ますます私を苦しめる。
皆が、良かれと思って気遣ってくださる言動に、私の心は悲鳴をあげた。
苦しみは、まちがいなく、私が、自分自身で作りだしてゆく。

涅槃寂静(煩悩の炎が消えたさとり)...そんな、愚かで浅はかな私に、「そのままでいい」と喚(よ)んでくださるのが阿弥陀さま。
何もできない私を見抜いて、必ず救う、南無阿弥陀仏とはたらいてくださっている、それは、まちがいなく真実。

心の霧にさす一筋の光
<pclass="cap2">生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(註釈版聖典579ページ)

私は、行き先の見えないジェットコースターに乗っていたのではなかった。
まちがいのない願船(がんせん)に乗せていただいているのだ。
「そのままでいい」と泣いてくれた娘の言葉は、私の心の霧にさす、一すじの光のようだった。

あれから2年。
病気になって良かった、とは言えないけれど、病気のおかげで気づかされることは多く、病気にならなければ知り得なかった縁も、たくさんいただいている。

何よりも、子どもたちを「いってらっしゃい」と見送れる日々が素直に、嬉(うれ)しい。

「おかあさんは死んでも、しぶといわよぉ。
だって南無阿弥陀仏だもん」と言うと、「訳わからん」と笑ってくれる家族に、ありがとう。
「少し寒くなったよ。
大丈夫?」と心配してくれる友に、ありがとう。
「たくさん食べて元気にしとってね」と新鮮な野菜や果物を届けてくださるご門徒の方々に、ありがとう。

私は今日、生きている。

私の喜びを喜び、私の哀しみを哀しむという、大慈大悲の阿弥陀さまに、生かされている、いのち。
そのままに、ありがとう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/