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ご法義のかぜ みんなの法話

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ご法義のかぜ
本願寺新報2004(平成16)年3月10日号掲載
布教使  三明 慶輝(みあけ けいき)
浅原才市のお念仏の詩
世界にも名高い妙好人、念仏者と親しまれる浅原才市は、八十三年の生涯を山陰の片田舎で、船大工、ゲタ職人として過ごしました。
そして、下駄の切れ端やカンナくずに法悦の営みを素直に書き留め、八千首とも一万首とも数える膨大なる念仏の詩(うた)を遺しています。

<pclass="cap2">かぜをひけば咳(せき)がでる
才市がご法義のかぜをひいた
念仏の咳がでるでる

この詩は、北原白秋先生も絶賛された最も有名な口合(くちあ)いです。

ことさように、かぜをひくと口を噤(つぐ)もう、噤もうと思っても、ゴホン・ゴホンと咳がでます。
同じく、ご法義のかぜをひいた才市の口を通し、何時とは無しにお念仏、ナンマンダブツが弛(たゆ)まなく溢(あふ)れていました。

宗門では二十数年来、基幹運動のスローガンを「念仏の声を 世界に 子や孫に」と掲げています。
しかし、ご本山のみ堂に参詣しても、また全国各地のお寺のご法座の席でも、あるいは各家庭のお仏事の場においても、お念仏が声高らかに響きわたることは少なくなってはいないでしょうか。

親鸞聖人は、

<pclass="cap2">念仏成仏これ真宗
万行(まんぎょう)諸善これ仮門(けもん)
権実真仮(ごんじつしんけ)をわかずして
自然(じねん)の浄土をえぞしらぬ
(註釈版聖典569頁)

と「浄土和讃」にお示し下さいました。

また、蓮如上人の仰せにも、「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」(同1189頁)とあります。
心して聴聞させていただかねばなりません。

だからこそして下さい
そんなことに思いをめぐらしていたある時、仏教壮年会の会合で、「おかげさまで、私もようやくお寺にも足を運ぶようになり、朝夕にはお仏壇に手を合わせていますが、なぜか、照れ恥ずかしくてお念仏を申すことができません。
どうすればお念仏がでるようになりますか」と質問がありました。

私は即座に「だからこそ、称名念仏して下さい」と言いましたら、「お念仏がでないので、どうすればよいのかと質問したのに、お念仏申せでは...」と戸惑われたようでした。

そこで私は「幼子は事あるごとに〝お母さん、お母さん〟と母親の名を呼びます。
〝お母さん〟と呼んでいく中に母親の慈愛に包まれていることが幼子に伝わっていくのでしょう。
それと同じく、この私が称名念仏させていただくのです。
『南無阿弥陀仏』と申すその中に、如来さまのお心・お慈悲に包まれているわが身に気付かせていただくのです」と話したことです。

おじいさんの携帯電話
ところで近年は携帯電話が普及して便利な時代になりました。
この携帯電話が欲しくてたまらない八十歳過ぎのご門徒がおられました。
家族の反対を押し切り、やっとの思いで手に入れた途端、場所もわきまえず、「今どこどこにおる...」等々と一方的にかけられていました。
ある日、外で機嫌よく杯を重ねていましたら、けたたましく着信音が鳴り響き「どうして、ここにいるのがわかったか...」とおっしゃったそうです。
それ以来、愛称は「ドコモ」になりました。

そのおじいさんも寄る年波には勝てず、去年亡くなられました。
葬儀も滞りなくおわって出棺となり、最後のお別れの時、永年連れ添った奥さんは、ご主人愛用のあの携帯電話を棺に納めて、「おじいさんや、さみしゅうなったら電話をするから...」と話しかけられたそうです。

しかし、どんなに性能のよい携帯電話でもお浄土にはかかりません。
お浄土に生まれられたおじいさんと話しができるのは、唯一お念仏申すことです。

<pclass="cap2">仏の心は不思議なものよ
目には見えねど話ができる
仏と話をする時は
称名念仏
これが話よ

と、才市同行は讃えています。

このように、お念仏申すことは、先立たれた懐かしいお方とも会える世界が拡がり、ご法義のかぜ―南無阿弥陀仏―と共に、強く明るく生き抜く日暮らしが恵まれることです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/