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ご法縁に遇えば 人生を見直すことができる

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熊谷次郎直実は、『平家物語』で有名です。直実は「一の谷の合戦」で、一子小次郎と同年の、まだ幼さの残る平敦盛を組みふせ、ためらいながらも首を落とします。平家物語は、さらには能や歌舞伎なども、この二人の姿を、人の世、戦の世の虚しさ悲しさを込めて描きあげたのでした。また直実が後に法然上人のもとに入門することから、この場面は節談説教でも、感動的に語り継がれます。

 その直実が、法然上人のもとを訪れた時のエピソードがあります。法然上人への取り次ぎを乞い、会うのを待たされている間に、直実は刀をとぎはじめます。それを見て、法然上人に危害をおよぼすのではといぶかる人たちに直実は言います。自分がここへ来たのは「後生」が助かるためであり、もし法然上人が後生のためには腹を切れとおっしゃるのであれば、直ちにこの刀で腹を切るつもりだと。

 法然上人は必死で後生をたずねるこの直実に説きます。「罪の軽重をいはず、たゞ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と。その教えを聞き終わって、直実はさめざめと泣き出したといいます。後生のためには手足を切るか、命を捨てよと言われると思っていたのに、「ただ念仏申せ」との仰せの、何とうれしいことかと。直実はこの後ひたむきな念仏者になります。(阿満利麿『法然の衝撃』人文書院 取意)

 「ただ念仏しなさい」という教えを聞いて、うれしさのあまりさめざめと泣き出し、念仏者となった直実のことを思うたびに、私は自分と直実との距離を思います。私は、「ただ念仏」との親鸞聖人の教えを聞いていながら、なんとうれしいことかと感じたことが一度でもあるだろうかと。

 この私と直実との違いは一体どこから起こっているのでしょうか。

 現代人である私たちは、「後生(後世)のたすかる」ということばから遠くへだたってしまったように思います。現代人はこの世、この身がすべてであり、この身を失ってしまえばすべてが終わると考えているのではないでしょうか。この世でどんな罪を犯そうとも死んでしまえば何も関係ないと。そのことによって私たちは、罪のおそれから解放されたかわりに、「後世」から自分の今、今までの自分の人生を見つめる視点を失ったのだと思うのです。

 その結果、私たちは自分の罪を正当化することになりました。私たちは他との比較において自分を見つめます。「私はあの人ほど善人ではない、しかしあの人ほど悪人でもない」と。そう考えて結局は自分を正当化します。あるいは、自分の悪に気づくこともありますが、反省し努力することで、その罪をどうにかできると思います。さらには、自分は自らの罪を自覚し苦しんでいることを持ち出して、自分を許します。

 私たちは後世を失うことによって、罪の事実に真向かうことをしなくなり、罪の感覚を失いました。同時に「念仏申しなさい」との親鸞聖人の教えから遠ざかったように思います。

 やり直すことのできない自分の人生を、後世という視点から見直す、そこに大切な法縁が開かれるように思います。


島 潤二 1947年生まれ。福岡県在住。 久留米教区仁業寺。



東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。