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ご恩 みんなの法話

提供: Book


ご恩
本願寺新報2000(平成12)年11月20日号掲載
松嶋 智譲(まつしま ちじょう)(布教使)
生きるのも当たり前

え.秋元 裕美子
「いただきます」

「ごちそうさま」

食前食後の言葉です。
私も子どもの頃から朝・昼・晩と食事の度に言ってきた言葉です。
これは「感謝」を表す言葉なのは言うまでもありませんが、果たして本当に感謝しているのでしょうか?「いただきます」も「ごちそうさま」も口先ばかりで、いつの間にか「当たり前のこと」になっているのではないでしょうか。

「いただきます」は、食べる物を恵まれた事に対する感謝の言葉です。
食べる物といっても、いざ私の前に並べられた一日三食の食事には、いろいろなものがあります。
魚もあれば野菜もあり、肉もあれば米もあります。
どれもこれも「いのち」を生きていたものたちです。

私という「いのち」は、これら多くの「いのち」を食せねば生きられないのです。
つまりは魚や野菜や肉や米の「いのち」をいただきながら、生かされているのです。
ところが、飽食の時代といわれる現代では、食事として「いのち」をいただいている「おかげさま」を忘れ、食べることも生きることさえも「当たり前」になってしまっているように思うのです。

コイの黒い瞳が...
私が子どもの頃の話です。
ある時、そのお堀の前を通りかかると、見たこともないくらい大きな鯉が、白いお腹を上にしてぷっかり浮いていました。
どこかの川で釣られたものの、手に余ったため捨てられたのか、それとも堀の水が合わなかったのかは知りませんが、堀に住んでいるはずが無い大きな鯉の死体が浮かんでいたのです。


子どもだった私は、それまで出会ったことのない大きさの魚の死体が、とても無気味に思え、目を逸(そ)らしてその場を立ち去ろうとしました。
ところが、その死んでいる鯉の白みがかった黒い瞳が、私の視界に入ってきました。
その途端、それまで無気味だと思っていた鯉の死体がかわいそうに思えてきたのです。


目は口ほどに物を言うと申しますが、その瞳を見ていると、なんだか鯉が「私は生きていたんだよ。
なのに突然知らない街の知らない堀の中に放り込まれてこんな姿になってしまった...」と言っているような気さえしてきました。
結局、鯉をそのままにしてしまったものの、心の中で「かわいそうに、かわいそうに」と呟(つぶや)きながら家に戻ったのでした。


それからというもの、私は頭が付いた魚料理はとても苦手なものになってしまいました。
頭の付いた魚の煮物や焼き魚などが出てくると、どうしても幼い日に出会ったあの鯉の黒い瞳を思い出してしまうのです。
箸(はし)を付けなかったり、食べ残したりするわけではないのですが、何だかすまないなぁと思いながら食べるのです。

ところが、刺し身や切り身で頭が無い状態で食卓に並ぶと、何も思い煩うことなく我れ先にと箸をつけます。
それどころか「今日のはおいしいねぇ」とか「今日のはあまり良い魚じゃないね」とか言ったりもします。
私は、自分の気分次第で「いのち」をいただくことを「すまない」と思ったり「当たり前」と思ったりしているわけです。

"おかげさま"の生活

仏教では、仏さまの智慧の眼の前では、世の全てのものに「いのち」があるとご教示下さっておられます。
また、「いのち」は頭が付いた魚の方が重く、切り身になった魚は軽いということはなく、動物には「いのち」があるが植物には「いのち」がないというものでもありません。
全てが全て、掛け替えのない「いのち」なのです。
そして、この私の「いのち」は、多くの「いのち」によって生かされているのです。

私の「いのち」が多くの恵みによって生かされていることを知らされ知った時、朝食のお膳一つ取っても「当たり前」と思えるでしょうか?むしろ「いのち」を恵まれることへの「おかげさま」の感謝の気持ちが出てくることでありましょう。
食前の「いただきます」も食後の「ごちそうさま」も、尊い恵みを施されたことを知らされ知る者のたしなみの心持ちなのです

阿弥陀如来のお慈悲は、無量光(いつでも)無辺光(どこにいても)という光明の輝きの如く、この私の「いのち」の上に、「お前を救いたいのだ」と私をして信ぜしめ、お念仏せしめ、浄土に参らしめんとおはたらき下さっています。

蓮如上人は「万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。
捨つるも取るもいづれもいづれも御恩なり」(1328頁)と、如来さまのお慈悲の中に生かされている者の味わいをお示し下さいました。

私の日暮らしの上では、何もかもがご恩の「おかげさま」の中の日暮らしであるということです。
そして、私を支えて下さる一切の事象の中に、いつでもどこでもとおはたらき下さる如来さまのご恩を聞き開かせていただく中で、その尊いご恩に「感謝」させていただく「たしなみ」の心を大切にさせていただきながら、お念仏の日暮らしを送らせていただきたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/