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ごまかしのない生(せい) みんなの法話

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ごまかしのない生(せい)
本願寺新報2007(平成19)年4月10日号掲載
本山・布教研究専従職員 名和 康成(なわ こうじょう)
死におびえ寝付けない

「なんだか亡くなったおじいさんに、お参りさせてもらっているみたいだね」

お仏壇の前に座り、おつとめをしようとした時、ご門徒のおばあさんが笑顔で私にこう話しかけてきました。

いろんなお宅にご命日のお参りにうかがいますが、「亡くなった方にお参りさせてもらっている」と言われたのは初めてでした。
きっとおばあさんは「亡くなった主人がお経(きょう)にあうご縁を私にくれている」と言いたかったのでしょう。
最初はその言葉に驚きましたが、よくよく味わうと、私にとっても、たいへんありがたい言葉だと思いました。

小さい頃から、就寝前の部屋の暗闇の中で死におびえ、寝付けないことが何度あったことでしょう。
高校時代には、授業中に先生がふと「人間は死んだら"無"になるだけだよね」と言われ、「これからの人生、精いっぱい生きたとしても所詮(しょせん)、無に向かっていく人生なのか」と落胆し、複雑な思いがしました。

それからも時々、自分の死について考えましたが、答えの出せないこの問題を、いつしか日々の生活に目を向けることでごまかし、遠ざけながら生きていたように思います。

涙しかない深い悲しみ
その後、お寺の後継者ということもあり、さまざまな場で浄土真宗のみ教えを聞くようになりました。
しかし、「死という問題をすでに解決してくださっている阿弥陀さま」ということを聞かせていただいても、それが自分の事ではなく、どこか他人事のように聞いていたように思います。

おばあさんの言葉との出会いは、そんな中での出会いでした。

もともとそのおばあさんは、亡くなったおじいさんと、よくお寺に参りに来られていました。
どこへ行くのも一緒で、たいへん仲のよいご夫婦でした。

しかしある年の夏、おじいさんは病気で入院され、そのまま亡くなってしまいました。
ご主人を亡くしたおばあさんの悲しみは、たいへんなものでした。

出棺の時、ひつぎの前で、ご親戚の方に支えられながら涙を流すおばあさんの姿を、今でもはっきりと覚えています。

年を重ねていようがいまいが、死を前にした時には涙することしかできない人間の深い悲しみに触れたような気がしました。

<pclass="cap2">願土(がんど)いたればすみやかに
無上涅槃(ねはん)を証(しょう)してぞ
すなはち大悲をおこすなり
これを回向(えこう)となづけたり
(注釈版聖典581ページ)

阿弥陀さまの本願によって浄土へ生まれたものは、阿弥陀さまと同じこの上ないおさとりを開かせていただき、再びこの世界に還(かえ)ってきて、死ぬことに答えを出せずに迷い、嘆き、悲しむ私たちを支え、そして阿弥陀さまのみ教えに導いてくださるのです。
それらはすべて阿弥陀さまのはたらきによってなされるのです。

今お慈悲に生かされる
おばあさんは、お寺に参ることも、本を読むことも、阿弥陀さまのみ教えに出あうことすべてが、おじいさんに導かれたものであったといただかれたのでしょう。

「亡くなったおじいさんにお参りさせてもらっているみたいだね」という言葉から、阿弥陀さまの大きなはたらきの中で、お念仏のみ教えをすすめてくださるおじいさんとの出あいをよろこぶ心が伝わってくるような気がしました。

それと同時に、「死は無である」という言葉におびえ、落胆し、いつのまにかまともに死と向き合うことを遠ざけていた私にも、「あなたの死をむなしいものにさせません」という阿弥陀さまがいらっしゃることを、深く味わわせていただきました。

死という現実から目をそらすという「ごまかし」を抱えたまま生きていた私に、「ごまかしのない生(せい)」を与えてくださる、そんな阿弥陀さまのお慈悲の中に、今、私は生かされています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/