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こころのガソリン みんなの法話

提供: Book


こころのガソリン
本願寺新報2008(平成20)年8月10日号掲載
宮城・明観寺副住職 三浦 一実(みうら かずみ)
感情が枯渇していく・・・

「ぐ」と書いて、何と読むでしょうか?

日頃、新聞を読んでいても目にしない字です。
漢字検定一級にすら出てこないような難読漢字です。
ただ、さんずいへんなので、「水」とかかわりのある字であろうことは想像できます。

初めてこの字を見たのは、『無量寿経』というお経を読んでいた時でした。

お経には「じゅ」とルビがふってありますから読めるのですが、「訓読みでは何と読むのだろう...」と、お経を読んでいてその文字に出合うたびに気になっていました。

辞書を引くと、「そそぐ」と読み、ちょうどよい時に「ふりそそぐ雨」「うるおう」という意味が載っていました。

ところで昨今、「勝ち組」「負け組」という言葉に象徴されるように、「正」か「邪」か、あるいは「強」か「弱」か、などといった対立概念にとらわれ、勝つこと、正しいもの、あるいは強い人のみよしとする感覚に陥っていないでしょうか。
それはいつしか、暗黙のうちに、人が泣くこと、涙するこころすら否定してしまっているように思います。
そして悲しみの感情だけではなく、喜びの感情をも平板にしてしまっているのではないでしょうか。


誰が給油してくれるの
というのも先日、夕べの食卓で小学校一年生の長男が突然私に「お父さんは、こころのガソリンが枯(か)れちゃったの?」と聞いてきたのです。
めったに涙を見せない父親の姿を不思議に思ったのでしょう。

最初は子どもの何気ない言い回しと、その発想に感心したのですが、後になってハッとさせられました。
涙はこころを萎(な)えさせるものではなく、逆に、渇(かわ)いたこころにエネルギーを与えるガソリンだなぁと感心したからです。
では、そのガソリンを一体誰が私に給油してくれるのでしょうか。

お寺のお説教で、こんなお話を聞かせていただきました。

無理してやせ我慢せずに、悲しい時には素直に「泣」きましょう。
さんずいへんに「立つ」と書くように、泣くことによってかえってその悲しみから「立ち」上がることができますよ。

また、さんずいへんに「戻る」と書いて「涙」ですが、悲しい時には素直に涙を流して泣くことによってかえって、平静な、落ち着いたもとのこころに「戻る」ことができるのではないでしょうか、と聞かせていただきました。

もちろんこれらは本来の字の意味・成り立ちとは無関係の話ですが、どこかこころに響く話でもあります。
私たちの体からはさまざまなものが分泌(ぶんぴつ)・排泄(はいせつ)されます。
汗、おしっこ、鼻水、唾液(だえき)・・・。
いずれも汚いものとイメージされがちですが、涙はちょっと例外ではないでしょうか。
涙を流すのは、悲しい時だけではありません。
感動した時など、とても気持ちが高揚した時もです。
そしてそんな涙はしばしば人の心を打ちます。

迷いの夢を覚ます
戦後、日本人は「泣」くとか「涙」をバカにしてきた風潮があるように思いますが、実は、泣いた涙が渇いたこころを潤(うるお)すのではないでしょうか。
そして、ともすれば渇きやすい現代の私たちに「思いやりのこころ」を取り戻させてくれるのではないでしょうか。

はじめにご紹介した『無量寿経』には、「法雨(じゅほうう)」〈法の雨を(そそ)ぐ〉と説かれています。
仏さまは、あちらこちらに足を運び説法をされます。
そのおすがたを「雨が降りそそいで草木を潤すように、教えを説き、常に尊い声で世の人々の迷いの夢を覚ます」(現代語版・浄土三部経6ページ)と示されています。

仏さまは「心のうるおい」を失いはじめた私たち一人一人に「み法(のり)の雨」となって渇いたこころを潤してくださいます。
悲しい時も、つらい時も、うれしい時も、あたたかな思いやりのある「慈しみのこころ」で、いつも寄り添ってくださっています。

折しもガソリン価格高騰にあえぐ今日、仏さまからそそがれるもの、私がそそぐもの、そして決して枯らしてはならない「こころのガソリン」のことを思いながら、「慈雨」のなかにいる慶びを感じます。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/