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かけがえのない自分の人生を そのまま受け取れない自分がいる

提供: Book

私はいま、ある刑務所(けいむしょ)で、忌日読経(きじつどきょう)と呼ばれる法事(ほうじ)の読経と法話を、隔月(かくげつ)に受けもっている。昨年、数回の間に、参列する受刑者(じゅけいしゃ)の数が激増した。10人前後であったのが、20人、30人と、回を重ねるごとに増えた。刑務官もはじめは目を細めてながめていたが、90人近くまで増えた時、これは異常だと問題になった。受刑者を独房(どくぼう)や相部屋に分け、広間では誰と誰が同席するのかも監視している刑務所のことである。それ以後、忌日読経は、個人別に2、3件勤(つと)めるだけに変更された。これは、取り返しのつかない人生を、かけがえのない人生に立て直すのを課題にしている現場で、その課題を聴聞(ちょうもん)するための法事が混乱し、私自身の、その同じ課題をになう姿勢が問われた出来事であったと思う。

 また、数年前、東本願寺の参拝接待所ギャラリーで死刑囚(しけいしゅう)の絵画・俳句展を観(み)たことがあった。その作品が仕上がるまでの、心身力の総量を目(ま)の当(あ)たりにした後、座談もした。「身内に事件の関係者がいなくて、想像したこともなかった」とか、「自分に関係がないなどと言えるのは、戦場での発砲(はっぽう)や妊娠4ヶ月までの中絶などの事実を、国の法律が許し、取り沙汰(ざた)されないようにしているからだ」などの感想もあって、考えさせられた。

 大事なのは、かげがえのない人生を聴聞(ちょうもん)することであるが、その人生の核心は合掌(がっしょう)のところにあると、私は思う。インドでは、食事は右手を使い、お便所では左手を用いる。左手は不浄(ふじょう)、右手は清浄(しょうじょう)と分けられていて、握手する場合は必ず右手で、と旅行案内にもある。そして合掌もまた、手のひらの浄・不浄の観点から、意味付けされている。

 合掌からは、清浄な右手だけで都合(つごう)のいい者同士が握手して、派閥(はばつ)になるような事態は、起こらない。合掌では、不浄の左手を前に出し、清浄の右手に合わせる。右手もその不浄に染まり、私全部が不浄になる。刑務所の壁は、刑期のあいだは越えられないが、合掌すれば、私とあなたを隔(へだ)てる壁は、いま越えられる。さしあたり壁はそのまま、お互いの不浄もそのままで、見捨てられず隔てられずに隣り合っておれるように、お互いに確かに頭が下がっている。合掌された相手はそこに、互いに侵(おか)さず侵されずに協力し、新鮮な家庭、村、町までも開きうる、まさにお同行(どうぎょう)を見出すことができる。合掌は、握手では到底(とうてい)開きえない摂取不捨(せっしゅふしゃ)の扉を、開きうる特別の作法(さほう)であると、私は思う。

 いま私は、あの作品でもって死刑囚は、私に合掌している、と感じる。私も不浄の両手を合わす。「合掌して受け取ろう、互いに選ばず嫌わず捨てず協力し、泥中(でいちゅう)にだけ花開くかけがえのない人生を、受け取ろう。それ以外に、どんな人生を求めたいのか」と聞こえてくる。


長坂 公一(ながさか こういち) 1934年生まれ、広島県在住 山陽教区明慶寺前住職



東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。